津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

藩校時習館・・6 五代教授・近藤淡泉

2008-02-11 22:01:15 | 歴史
近藤守敬(英助) 御備頭御留守居大頭組御小姓頭支配御奉行所触御物頭列 
           学校法御奉行触・時習館訓導 百五十石内五十石御足高
               延享三年二月~文化二年十月 秋田詫摩郡代
               文化二年十月~文化五年四月 宇土郡代
               文化五年四月~文化六年十月 野津原鶴崎郡代
               文化六年十月~文化六年十一月 菊池郡代
                   細川斎護公御書出(文政九年)
       
 名は昌明、字は子中、通称英助、淡泉と号す。藩に仕へ禄七百石、初め医員となり。後寛政十二年時習館訓導となり、数年にして郡代に転じ、更に府学時習館に入り天保十二年教授職に任ぜられ、六教授の一人たり。三代に仕へて服職六十年、恪勤精励終始一の如し。嘉永五年九月十三日没す。年七十九。春日萬日山に葬る。
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藩校時習館・・5 四代教授・辛嶋塩井

2008-02-11 21:58:12 | 歴史
辛嶋才蔵 御鉄炮三拾挺頭・惣教支配・時習館教授 三百石内二百石御足高
     
 名は和雄、一名憲、字は伯彝、才蔵と称し、エン井と号す。幼にして穎悟、数歳にして句讀を受け大學を背踊す。長じて草野潜渓に学ぶ、後時習館訓導となり又江戸にして大府の命を蒙り經を昌平黌に講ず。藩臣此の栄典にあずかるもの薩(摩)の赤碕海門、芸(洲)頼春水等数人のみ、後進んで時習館教授となる。所謂六教授の一人也夙に程朱を信し、忠君憂国の念終始一の如く、又親に事へて孝養を極む。
天保十年二月廿三日没す。年八十六。墓は万日山。
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好奇心

2008-02-11 16:59:13 | 徒然
 ミーハーな私は「猫の下ってこうなっていたのか」を覗いて見た。目からウロコだねー。
    http://www.ideaxidea.com/archives/2008/02/post_354.html

 このブログは、現在大変な事になっているみたいですよ。
あなたも好奇心がムズムズして来たでしょう。・・・どうぞご覧あれ・・・
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