近藤守敬(英助) 御備頭御留守居大頭組御小姓頭支配御奉行所触御物頭列
学校法御奉行触・時習館訓導 百五十石内五十石御足高
延享三年二月~文化二年十月 秋田詫摩郡代
文化二年十月~文化五年四月 宇土郡代
文化五年四月~文化六年十月 野津原鶴崎郡代
文化六年十月~文化六年十一月 菊池郡代
細川斎護公御書出(文政九年)
名は昌明、字は子中、通称英助、淡泉と号す。藩に仕へ禄七百石、初め医員となり。後寛政十二年時習館訓導となり、数年にして郡代に転じ、更に府学時習館に入り天保十二年教授職に任ぜられ、六教授の一人たり。三代に仕へて服職六十年、恪勤精励終始一の如し。嘉永五年九月十三日没す。年七十九。春日萬日山に葬る。
学校法御奉行触・時習館訓導 百五十石内五十石御足高
延享三年二月~文化二年十月 秋田詫摩郡代
文化二年十月~文化五年四月 宇土郡代
文化五年四月~文化六年十月 野津原鶴崎郡代
文化六年十月~文化六年十一月 菊池郡代
細川斎護公御書出(文政九年)
名は昌明、字は子中、通称英助、淡泉と号す。藩に仕へ禄七百石、初め医員となり。後寛政十二年時習館訓導となり、数年にして郡代に転じ、更に府学時習館に入り天保十二年教授職に任ぜられ、六教授の一人たり。三代に仕へて服職六十年、恪勤精励終始一の如し。嘉永五年九月十三日没す。年七十九。春日萬日山に葬る。