津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・8

2009-01-07 13:09:42 | 歴史
鍋嶋家の攻口をさゝえたる切支丹共は天草丸・有江まるをも破られ、西の土居をきひしきかため、矢石を発して防之、田尻口の方を被破たる者も尚郭中にさゝへて相働候、当家の士卒しきりに進むて賊を討、殊に松山次郎大夫 松野右京組 は敵三人と突合、腕耳の下ふゑの脇をも突せ候へ共、起上りて壱人突倒し候、扨長刀にて冑頬当の上小手をも切られなから、又壱人仕留、壱人ニハ手を負せ候へとも、其身深手なれハ鑓をふる事もならず、歩行も難成引取候ニ、光利君御懇之御意御座候と也
和田伝兵衛子和田清大夫 後ニ与右衛門 も松山と一所に有て相働く 一ニ敵を打 、大嶋彦左衛門 小笠原備前与 は敵五人にわたり合、壱人突伏候へハ、残りハ小屋ニ逃入を亦壱人突すゆる、此時胸板を突伏候、伊藤左内 西郡要人与 すゝむて働候処、膝に鉄炮手を負、平野九大夫・森半大夫 藪図書与 ・乃生右平太 志賀左門与・蜂須賀弥次兵衛 筑紫大膳与 等は各敵を討取、佐藤安右衛門 右馬助与 は小屋之前ニ居たる敵壱人鑓を以立むかひ候を突伏、鼻をそかせ、扨ため池の右手二付本丸・出丸の方ニ進候処、小屋内より鑓突出シ候間、則突ふせはなをそかせ候、其小屋之前に土手有之、矢かゝりよく候間、御鉄炮を立しはらく打せ候内ニ、組之足軽自分者ニも手負少々有之、其時国友式右衛門・高田角左衛門・松岡久左衛門・伊藤山三郎等同前ニ参居候、田中作之允水の手口より乗入、壱人突留る、扨本丸の方ニにくる敵を追掛候処、壱人取て返し懸り来る所を突候へハ、つかれなから柄を取て飛候ニひかれころひ胸を強く打、二の丸のため池ニ而息をつき居候内、各本丸の方ニすゝミ行、右鑓付候敵も余人仕留候也、竹内八兵衛 志賀左門与 ハ鑓を合せ首を取けれ共、右の腕ニ鑓手負働ならす本陣に帰り、有吉舎人は敵弐人鑓長刀にて向ひ候を壱人突伏候、後藤一十郎小屋より出る敵壱人を仕留、北村甚十郎 鳥井六左衛門与 は浪人出田太郎左衛門と共ニ大勢の中にて鑓を合、賊を討、又組討の働有、河喜多久四郎 後ニ源之進 正季賊三人突留、道家角左衛門と互に詞を交し相働く、臼杵万五郎小屋の内の敵壱人突、又太刀打して首ハ切捨にし、兄庄大夫ハ組討に賊を仕留、元田伝次も首を取 後鉄炮手負候へ共本丸ニ入 財津市兵衛ハ小屋間を駆通る所に、敵不意に出て突掛るを見返て鑓の鐏(イシヅキ)ニて突倒し首を刎、渡部平左衛門 大筒打 は敵十四五人なた長刀にてかゝり候ニ渡り合、鑓にて三人仕留申候、片岡平之允・余田三右衛門・高本慶宅も敵を討て首を取、余田ハ終ニ討死いたし候、藤本九右衛門 勘助嫡子 先にすゝむて鉄炮にあたり手を負、歩頭本庄角兵衛ハ御旗本より御使として罷越、御意之趣等申渡、直ニ二の丸ニ乗込候か、よく働て手疵を負引取候、若党弐人討死、小者弐人手を負申候、先手の様子御尋ニ付委敷申上、御本陣に相詰申候
 御帰陳之上被仰渡候ニ、御軍法を破一分之働仕候間、切腹をも可被仰付候得共、御赦免被成之旨
 也、後ニ名字を柴任と改申候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする