津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・15

2009-01-14 22:43:55 | 歴史
三淵内匠しきりにすゝんて本城の下に至り相働候、家人金光角左衛門差物を取て来るに、二丸江乗入候時右手を鉄炮にて打ぬかせ、左手に取直し真先かけて従ひ候、中野角兵衛もよく働て附従ひ、森内喜兵衛ハ二ツ玉ニ而胴を打ぬかれて死し、堀平大夫も頭を打せ候へ共脳を砕に不至 後に平癒 、塚本平左衛門ハ喉を打せ、兵藤六之允ハ腕を打ぬかせ、古庄文右衛門ハ竹鎗にて脇腹を突せ、横田杢十郎ハ肩先を突せ、菅権七も深手負、鑓持角蔵ハ首を打ぬかれしかとも尚死せす 老年迄其矢首に止り候 、如此手負討死多候へ共、昭正尚進て既に犬走に着んとせし時、鉄炮にて右の肩を打せ転ひける所に、又石にて目庇をうたれ、深手にて働難く、死人に腰をかけ息つき居たる処、従兵卅計の武者半弓を持せ長刀を提けたるか、昭正か側近く来り、何の御衆に候や、深手負れ御家来も手負死を致し比類なき御働ニ候、我等ハ黒田甲斐守家来にて候、互に名乗合て証人となるへしと云、昭正同心せす、是ハ仰とも不覚候、今存命不定の体にして、いかに城に後を向候へき、元より後栄を求る所存ならねハ証人の望も無之候、細川越中守家中にてハ人らしく召仕候者なる由、すげなく申切て以後ハ返答をもせさりし故、此上ハいかに云共引かれまし、扨々けなげなる振舞哉と感する声して立去り候、其後御旗本よりの命によりて頼母助・清田石見等に理り本陳に帰り候

宇野弥次兵衛一揆壱人仕とめ、石垣上るとて創を被り、伊藤儀大夫ハ討死いたし、嫡子権之允も手負候、河喜多久四郎・臼杵弥角兵衛なと一同ニ磡に着に木石等しきりに来り、久四郎か冑の真向に石あたり、立物微塵にくたけ、鉢を打ひしかれ候へ共不引堪居候

筑紫大膳磡に上り石に打れて創を被り、入江徳左衛門 大膳組 も同所に上り、高見権左衛門と一所に働、戸波儀大夫・飯銅上右衛門 ・財津善内兵衛 等同き励て、有馬豊氏の内有馬左門なと詞をかハし候由、其時徳兵衛冑に石あたり、立物も打折れ手負候へ共、猶堪て相働く 後に本丸に乗入 、上右衛門は真向より胸板ニかけ石にて打れ落候而働難成候間、家来肩ニかけ引取候 其時打よかめたる甲冑今の飯銅上太持伝居申候 、高見・財津も手負候、長岡八郎左衛門も石手負候へ共、猶もすゝむて相働、出田左兵衛 後作左衛門 ハ養父宮内元旦ニ手負候間、其組を支配いたし、今日も本丸塀下ニはやく着、立石助兵衛父子ハ三丸ニ而五十三人の組足軽を備、二ノ丸ニ乗入候処、小屋々々やけ煙にて道も難見分、此時足軽三十九人ハ嫡子市兵衛に付候而本丸石垣下ニ着働候処、残る者共を助兵衛召連来、父子一所に働、鉄炮を打せ候、不破平大夫も詰寄働候処、小頭冨田又兵衛鉄炮ニ中り、其外手負有之候へ共、尚も鉄炮打せ候、国友式右衛門も鉄炮打せ居候所に、佐渡守家人尾崎伊右衛門足軽五人つれ来り、式右衛門とおなしく打せ候ニ、弐ヶ所に鉄炮あたり本陳にかへり候、生地武右衛門先にすゝむを松井外記呼かけ、働ハいかにと問、武右衛門鑓をいたししるしを取慥なる由答けれハ、外記こゝろよく、我等も四人の子ともハ鳥飼召使ふ者共似合に心はせいたさせし上ハ、内々の通討死と極候也、先へ/\と云て采拝をふる故、武右衛門弥すゝミ行に、志水又左衛門一重 後一郎兵衛 に行逢、日比互に武勇を争ひ不快なりしか、此時和睦して共に助け合んと約し、打連て蓮池の上手の道にかゝり、向の岸に至らむとす、此時両人の外味方なく、屏の外石垣の辺に敵夥敷見へし中より、弐人相かゝりにすゝミ来るを、志水ハ升形の方岸下にて敵を突伏せ、生地ハ海手の方にて仕留、古井の内にはね入る
  右之鑓働を永良長兵衛二の郭の高ミより遠見し、後に沢村宇右衛門・丹羽亀之允・
  平野九郎右衛門等にむかひ、蓮池上の道にて茜の■(しなゑ)をさしたる武士弐人
  花やかなる鑓働せしを見たりと語り、廿九日の朝御本陳ニ興長出たる時、四人右之
  趣を申候間、武右衛門・又左衛門に書付出させ、佐渡より相達候と也、又左衛門は
  手負て引取、武右衛門ハ段々働有、佐渡家中にて原城武功の褒美ハ皆腰刀・金銀
  ニ而候へ共、武右衛門はかり百石の加増を遣し候、後年家老申付、山本源五左衛
  門と改候
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保科正之やら九鬼嘉隆やら

2009-01-14 17:06:29 | 徒然

「保科正之を大河ドラマに」しようと、地元があつめている署名総数が313,000人余になったと、「中日新聞」の記事としてYAHOOトピックスが伝えている。正之公生誕400年の2011年実現を目標に、NHKに要請を行う予定だそうだが、上伊那8市町村でつくる議員連盟が主に成っているようだ。
           ja.wikipedia.org/wiki/保科正之

熊本あたりでも、そんな気のきいた議員さんたちが出てこないものか・・・駄目だろうな・・
「細川三代」はドラマになると思うのだけれど・・・・・・

一方、「九鬼嘉隆」についての「大河ドラマ化」のアンケートが取られている事実がある。
           ja.wikipedia.org/wiki/九鬼嘉隆

さてさて向後どうなるのか興味は尽きない。
差し当たり「直江兼続」を、妻夫木何某がどう演じるのか、それも気になっている。
           www.nhk.or.jp/drama/html_news_tenchi.html
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熊本城・・源之進櫓

2009-01-14 15:50:52 | 歴史
熊本城内の多くの櫓の内に、関係した人物の姓なり名なりを冠したものが三つある。
飯田丸は加藤氏時代の飯田覚兵衛、監物櫓は細川家重臣・長岡監物、そして今ひとつが河喜多源之進に預けられたという「源之進櫓」である。(加藤氏時代の平左衛門櫓が一番大きいが現在はない)
2008年10月22日のブログで「河喜多石見の枝葉」を書いた。その折の系図を再掲する。


         +--河北五左衛門
         |  明智家中小笠原甚左衛門誅伐仕手・討死
         |
         |            +--平十郎
         |            |  父・石見死亡時勘気、後五百石、病死跡断絶
         |            |
         |            |           +--某 御暇
 ガラシャ夫人殉死|   妙見龍王城預  |           |        
 河北石見---+--藤平(石見)---+--五郎左衛門---+--助兵衛・・・・・・・・・・・・→列蔵家
          |    飯河豊前誅伐仕手・討死        | 
          |           |           +--次左衛門 病死
          |           |           |
          |           |           +--吉兵衛 病死
          |           |           |
          |           |           +--勘左衛門・・・・・・・・・・→助三郎家
          |           |           |
          |           |           +--角左衛門・・・・・・・・・・→一二家
          |           +--某
          |           |
          |           +--源之進・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→和学家
          |               (父)石見相果候砌出生仕候
          +--甚吉(嘉兵衛)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→治部左衛門家
              細川休無忠隆家臣(誕生時より慶長八年迄)その後豊前にて召出

この源之進、父藤平(石見)が飯河豊前誅伐の際その仕手に指名され、不幸に討死した前後に出生している。幼名久四郎、島原の乱にも出陣して働いたが控えめな性格であったらしく、「先祖の働き」に比べると大した働きもしていないと、自らの戦功を言い立てることもなかった。後、「綱利君御幼年の比六斎門の上御櫓一ヶ所御預被成」従類共二居住したと綿考輯録(忠利公・下巻P50~51)は記している。これが今に源之進櫓と呼ばれるものである。
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島原の陣--決戦の日・・14

2009-01-14 09:29:08 | 歴史
立允主ハ向の升形より七八九間程の所にしはらく蹈こたへ、其後升形ニ御付候ニ、御供も前後ばら/\に少ク成、一所に居候ハ七人衆、原伝右衛門・昇の小頭能勢藤右衛門・御馬しるしさし角助・御加子 黒鍬の役也 権三郎・半兵衛家来両人彼是十二三人はかり有之、熊本の御人数も追々ニ岸下ニ着、中ニも山田新九郎ハ猩々皮の羽折を着、立允主の御側に参、御見知被下候様ニと申候と也、城内の防つよく弓鉄炮の外種々の物を投出し、灰をまき不浄を打掛候得へ共、初ハこらへ居候が、つゝけて投出し候ニ乱れ立、こらへたる者も友崩ニ石垣下より横筋違ニ、立允主の御座候方ニ三ケ度なたれ懸り候ニ、いつれも頂をふミつふさるゝとも不騒、折敷鑓の穂先をなたれ候者の方に向ケ候へと御下知にて其通りいたし、猶なたれ掛る者を御側の面々下江引居へ、三度目ニハ押留候而、以前の石垣下ニもとりこたへ候也

自是先、御馬験ハしほりて流尾筋の下ニ可指置旨御下知ニ付、其通いたし置候処、佐方源助心を付、揚時分遅きとて呼ニ罷越候、立允主も御心に叶ひ、はや揚ケ候へと原伝右衛門ニ被仰候ニ付、石垣下にしほりくる所の四半の大旗を押張立堅メ候時、跡より又二三間御詰寄被成候、夫より石垣の上ニ可上とて伝右衛門・藤右衛門両人ニ而引上候を、城内より見付防候間、藤右衛門も三ヶ所石手を負、馬印の絹打やふり、竿も雁股ニ而射割、鉄炮ニ而打折、角助も石手弐ヶ所負、腰より下三ヶ所鉄炮にて打抜候へ共、強力者ゆへ二度迄ハこたへ居候処、三度目にハ御馬印をさしなからたをれ候ニ付、手引ニ付居候黒鍬組権三郎鍬をこしにさし、馬印を取揚たるに、横手絹共に抜候を打ふり、細川立允一番乗と二声三声呼はり候、権三郎も石手を負候

扨伝右衛門・藤右衛門両人にて絹の不散様に押わげ、立允主の御側に持参候へハ、下なる昇をあけ候へと被仰、又御昇壱本張立上たる石垣の上に差上候ニ、此時其左右にハせり合はけしく候へ共、昇上る所には敵居不申、無別状立堅メ候、本丸升形虎口の石垣ニ一番に馬験を付堅メ候事一二の争ひ一人も無之、日の三尺はかり高き時分の由也、歩行之小姓梶野市右衛門と申者御馬験に付居候ひしか、御楯を持来、立允主の前ニ立候と也
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