三淵内匠しきりにすゝんて本城の下に至り相働候、家人金光角左衛門差物を取て来るに、二丸江乗入候時右手を鉄炮にて打ぬかせ、左手に取直し真先かけて従ひ候、中野角兵衛もよく働て附従ひ、森内喜兵衛ハ二ツ玉ニ而胴を打ぬかれて死し、堀平大夫も頭を打せ候へ共脳を砕に不至 後に平癒 、塚本平左衛門ハ喉を打せ、兵藤六之允ハ腕を打ぬかせ、古庄文右衛門ハ竹鎗にて脇腹を突せ、横田杢十郎ハ肩先を突せ、菅権七も深手負、鑓持角蔵ハ首を打ぬかれしかとも尚死せす 老年迄其矢首に止り候 、如此手負討死多候へ共、昭正尚進て既に犬走に着んとせし時、鉄炮にて右の肩を打せ転ひける所に、又石にて目庇をうたれ、深手にて働難く、死人に腰をかけ息つき居たる処、従兵卅計の武者半弓を持せ長刀を提けたるか、昭正か側近く来り、何の御衆に候や、深手負れ御家来も手負死を致し比類なき御働ニ候、我等ハ黒田甲斐守家来にて候、互に名乗合て証人となるへしと云、昭正同心せす、是ハ仰とも不覚候、今存命不定の体にして、いかに城に後を向候へき、元より後栄を求る所存ならねハ証人の望も無之候、細川越中守家中にてハ人らしく召仕候者なる由、すげなく申切て以後ハ返答をもせさりし故、此上ハいかに云共引かれまし、扨々けなげなる振舞哉と感する声して立去り候、其後御旗本よりの命によりて頼母助・清田石見等に理り本陳に帰り候
宇野弥次兵衛一揆壱人仕とめ、石垣上るとて創を被り、伊藤儀大夫ハ討死いたし、嫡子権之允も手負候、河喜多久四郎・臼杵弥角兵衛なと一同ニ磡に着に木石等しきりに来り、久四郎か冑の真向に石あたり、立物微塵にくたけ、鉢を打ひしかれ候へ共不引堪居候
筑紫大膳磡に上り石に打れて創を被り、入江徳左衛門 大膳組 も同所に上り、高見権左衛門と一所に働、戸波儀大夫・飯銅上右衛門 ・財津善内兵衛 等同き励て、有馬豊氏の内有馬左門なと詞をかハし候由、其時徳兵衛冑に石あたり、立物も打折れ手負候へ共、猶堪て相働く 後に本丸に乗入 、上右衛門は真向より胸板ニかけ石にて打れ落候而働難成候間、家来肩ニかけ引取候 其時打よかめたる甲冑今の飯銅上太持伝居申候 、高見・財津も手負候、長岡八郎左衛門も石手負候へ共、猶もすゝむて相働、出田左兵衛 後作左衛門 ハ養父宮内元旦ニ手負候間、其組を支配いたし、今日も本丸塀下ニはやく着、立石助兵衛父子ハ三丸ニ而五十三人の組足軽を備、二ノ丸ニ乗入候処、小屋々々やけ煙にて道も難見分、此時足軽三十九人ハ嫡子市兵衛に付候而本丸石垣下ニ着働候処、残る者共を助兵衛召連来、父子一所に働、鉄炮を打せ候、不破平大夫も詰寄働候処、小頭冨田又兵衛鉄炮ニ中り、其外手負有之候へ共、尚も鉄炮打せ候、国友式右衛門も鉄炮打せ居候所に、佐渡守家人尾崎伊右衛門足軽五人つれ来り、式右衛門とおなしく打せ候ニ、弐ヶ所に鉄炮あたり本陳にかへり候、生地武右衛門先にすゝむを松井外記呼かけ、働ハいかにと問、武右衛門鑓をいたししるしを取慥なる由答けれハ、外記こゝろよく、我等も四人の子ともハ鳥飼召使ふ者共似合に心はせいたさせし上ハ、内々の通討死と極候也、先へ/\と云て采拝をふる故、武右衛門弥すゝミ行に、志水又左衛門一重 後一郎兵衛 に行逢、日比互に武勇を争ひ不快なりしか、此時和睦して共に助け合んと約し、打連て蓮池の上手の道にかゝり、向の岸に至らむとす、此時両人の外味方なく、屏の外石垣の辺に敵夥敷見へし中より、弐人相かゝりにすゝミ来るを、志水ハ升形の方岸下にて敵を突伏せ、生地ハ海手の方にて仕留、古井の内にはね入る
右之鑓働を永良長兵衛二の郭の高ミより遠見し、後に沢村宇右衛門・丹羽亀之允・
平野九郎右衛門等にむかひ、蓮池上の道にて茜の■(しなゑ)をさしたる武士弐人
花やかなる鑓働せしを見たりと語り、廿九日の朝御本陳ニ興長出たる時、四人右之
趣を申候間、武右衛門・又左衛門に書付出させ、佐渡より相達候と也、又左衛門は
手負て引取、武右衛門ハ段々働有、佐渡家中にて原城武功の褒美ハ皆腰刀・金銀
ニ而候へ共、武右衛門はかり百石の加増を遣し候、後年家老申付、山本源五左衛
門と改候
宇野弥次兵衛一揆壱人仕とめ、石垣上るとて創を被り、伊藤儀大夫ハ討死いたし、嫡子権之允も手負候、河喜多久四郎・臼杵弥角兵衛なと一同ニ磡に着に木石等しきりに来り、久四郎か冑の真向に石あたり、立物微塵にくたけ、鉢を打ひしかれ候へ共不引堪居候
筑紫大膳磡に上り石に打れて創を被り、入江徳左衛門 大膳組 も同所に上り、高見権左衛門と一所に働、戸波儀大夫・飯銅上右衛門 ・財津善内兵衛 等同き励て、有馬豊氏の内有馬左門なと詞をかハし候由、其時徳兵衛冑に石あたり、立物も打折れ手負候へ共、猶堪て相働く 後に本丸に乗入 、上右衛門は真向より胸板ニかけ石にて打れ落候而働難成候間、家来肩ニかけ引取候 其時打よかめたる甲冑今の飯銅上太持伝居申候 、高見・財津も手負候、長岡八郎左衛門も石手負候へ共、猶もすゝむて相働、出田左兵衛 後作左衛門 ハ養父宮内元旦ニ手負候間、其組を支配いたし、今日も本丸塀下ニはやく着、立石助兵衛父子ハ三丸ニ而五十三人の組足軽を備、二ノ丸ニ乗入候処、小屋々々やけ煙にて道も難見分、此時足軽三十九人ハ嫡子市兵衛に付候而本丸石垣下ニ着働候処、残る者共を助兵衛召連来、父子一所に働、鉄炮を打せ候、不破平大夫も詰寄働候処、小頭冨田又兵衛鉄炮ニ中り、其外手負有之候へ共、尚も鉄炮打せ候、国友式右衛門も鉄炮打せ居候所に、佐渡守家人尾崎伊右衛門足軽五人つれ来り、式右衛門とおなしく打せ候ニ、弐ヶ所に鉄炮あたり本陳にかへり候、生地武右衛門先にすゝむを松井外記呼かけ、働ハいかにと問、武右衛門鑓をいたししるしを取慥なる由答けれハ、外記こゝろよく、我等も四人の子ともハ鳥飼召使ふ者共似合に心はせいたさせし上ハ、内々の通討死と極候也、先へ/\と云て采拝をふる故、武右衛門弥すゝミ行に、志水又左衛門一重 後一郎兵衛 に行逢、日比互に武勇を争ひ不快なりしか、此時和睦して共に助け合んと約し、打連て蓮池の上手の道にかゝり、向の岸に至らむとす、此時両人の外味方なく、屏の外石垣の辺に敵夥敷見へし中より、弐人相かゝりにすゝミ来るを、志水ハ升形の方岸下にて敵を突伏せ、生地ハ海手の方にて仕留、古井の内にはね入る
右之鑓働を永良長兵衛二の郭の高ミより遠見し、後に沢村宇右衛門・丹羽亀之允・
平野九郎右衛門等にむかひ、蓮池上の道にて茜の■(しなゑ)をさしたる武士弐人
花やかなる鑓働せしを見たりと語り、廿九日の朝御本陳ニ興長出たる時、四人右之
趣を申候間、武右衛門・又左衛門に書付出させ、佐渡より相達候と也、又左衛門は
手負て引取、武右衛門ハ段々働有、佐渡家中にて原城武功の褒美ハ皆腰刀・金銀
ニ而候へ共、武右衛門はかり百石の加増を遣し候、後年家老申付、山本源五左衛
門と改候