津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・22

2009-01-20 21:40:51 | 歴史
入江伝右衛門はやくすゝむて水の手升形に着候処、左門殿御内安井半之助・出雲浪人奥村角之允一同に着、其次に紀州之士久村金右衛門・其子百助も来り、以上五人共ニ敵と鑓を合相働、あたり二三十間か程ニハ一人も其時付者無之、十四五間程下に大なるがけ有之ニ味方大勢居候を呼候処、足軽一人はやく来、鉄炮にあたり死し、其後大勢着候也

坂井七郎右衛門もはやく本丸塀下に着候を、屏の上より長刀二而鑓を切折候、其時高見権右衛門石垣下に居候ニ、詞をかはし、鑓を捨刀を抜、塀に乗上候処、鑓にてかぶとのはつれより肩を突、鑓共に忽落されけれとも、鑓をぬき、其鑓を持乗上り、右の敵を仕留候、然れ共深手ニ而働難成、家来に介られ退キ申候、越生儀兵衛は部屋住ながら津田三十郎組に被加、芦北御郡筒十挺御あつけ被成候を下知し、石垣に着てうたせ、関安之允も 後平左衛門、孫左衛門弟 無足ニ而居候へ共、御郡筒十挺引廻候様被仰付、松野左馬助組ニ而罷越候か、早々本丸海手の角に着、塀の内に大勢居たる敵ニわたり合鑓付候処、石ニ而かふとの鉢を打破、左の腕ニ鑓手を負、鉄炮にも中り、数ヶ所疵を被り候、金守形右衛門 松山権兵衛組 ハ浪士石橋久兵衛と共に海手の隅より四五間西の犬走に着て、鑓を城中に打込けるか、鉄炮に中り創を被る、宇野弥二兵衛敵壱人仕留、石垣をのほる時手を負、津田三十郎も組を下知し石垣に着て相働く、加藤左兵衛か嫡子加藤庄大夫・二男権助両人共に津田組ニ而罷越、庄大夫ハ御郡筒十挺御預被成、組之者召連、海手犬走に乗上り鉄炮打せ、権助ハ石垣下ニ而鑓を合せ手を負申候、小崎次郎左衛門・高橋太郎左衛門・松野縫殿・吉弘四郎大夫・上野悪助景信等同磡に付て力戦し、縫殿ハ塀越に敵を突伏る、星野庄助・上野善兵衛等も同所ニ挊候か、水の手口にて星野は鉄炮二あたり死す、坂崎内膳・丹羽亀之允・大木織部等を先として御児小姓二至迄、御免しを受て先手に加り候、御旗本ニも矢玉しけく来候間、御側を守候面々御矢表に立て、手負死を遂る者も有之候、中ニも生駒治左衛門為勝 御扶持方被下置、御懇之者浪人分也 鉄炮に中り御采拝の下に倒れ候を、太タ(はなはだ)御愛憐にて急に扶ヶ起し本営に返され候、野田喜三郎も御楯に参候と也

忠利君御歩使を以楯板を馬場三郎左衛門の前に立候へと被仰付候、依之御物奉行藤掛蔵人・山本三蔵支配の鷹匠手々に是を運候へとも、馬場殿ハ我前に付るに不及、屏下に付へき旨被申候間、屏下壱間はかりニ付て、立石助兵衛・佐分利半左衛門等相詰て鉄炮打せ候、大嶋彦左衛門組足軽を下知し、石垣の上なる敵を打せ候内、額を鉄炮に打れなから屏下に上り、足軽を下知いたし、尚又長谷川仁左衛門・清田又右衛門なと一所に来候得共、手疵強クいたミ堪かたく、白木貞右衛門一同に引取候、岩佐彦作 藪図書組 鉄炮胸にあたり 翌年死候 、其子源五も弐ヶ所手負候へともふりよく働候、此外磡をつたひ石垣を登り、屏下ニ着て乗入んとすれとも、蓮池の上ハ殊に石壁そばだち、竹木の切かぶ刃のことく進退自由ならす、其外の所も賊徒かさより強く防き、大木・大石・礱磨・鍋・釜其外色々の物を落し、煎砂・熱湯・糞土をかけ、篷の類に火をつけ投出し、それをのかれて塀越に働く面々をハ鑓長刀にて突落し、必死に成て防候間、石垣より打落され岸を下りニ、蓮池の際迄討死手負い若干にて、多くハ退屈して見へける処、光利君御馬を被乗出、此城いか程堅固なりとも土民の防術何程の事をか仕出すへき、寄手ハ一騎当千の英雄也、うしろにハ忠利君を初御目付及ひ上使衆相さゝへて見分あり、何もすゝむて高名を顕し候へとの御下知によりて、又一きわいさミを増し、各励て相働き候、長岡佐渡ハ最初本城攻かゝり候時、立允主の寄口よりも左に押廻り、池尻口の上よりよせ、竟に海手東之隅石垣の敷より九間三尺程ニせり詰、寄之ハ猶も石垣近く坂半ニ在、有吉頼母ハ本城西北の岸下蓮池のの頭三十余間ニ備へ、立允主ハ初より其中分の升形ニ着、何れも士卒犬走に逼る、志水新之允ハ石垣下ニ着て隊下をすゝめ手の者を下知し、其組平野治部左衛門・中根市左衛門父子足軽を下知し能鉄炮を打せ 市左衛門三丸・二丸小屋々々に居候敵をしたへ、火をかけさせ返り候、平兵衛所々にて働き候 組の足軽数多手負、高田角左衛門は出丸石垣下ニ而両股を被打貫、右の腕を石ニ而被打候へ共、出丸の下壱間程之石垣を上り、御鉄炮打せ候、二男九郎次も左之腕を鉄炮にてうたれ、組の足軽三人討死、八人手負、家来も五人手負候、角左衛門行歩不叶、手もこわり候へ共、居りなから下知を加江候由 後城ニ乗込、夜更候而組之者共船板にのせ、小屋に引取候
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島原の陣--決戦の日・・21

2009-01-20 12:21:17 | 歴史
水野喜左衛門 道家与 ・寺嶋弥源太 主水与、中小姓 ・牧牛之助 道家与 ・永井安大夫 ・高見九兵衛 ・吉弘一郎左衛門・堀江勘兵衛・斉藤忠三郎 権佐子 ・笠喜左衛門 吉弘与 ・吉弘加左衛門・金守五左衛門 沢村宇右衛門与 ・国友茂(儀)兵衛 道家与 ・丹羽友助 丹羽与 ・大洞伝四郎 道家与 ・磯谷半四郎 筑紫与 ・大槻才三郎 津田与 ・西沢伝兵衛 藪与 ・井関左源太 ・村井十三郎 有吉舎人与 ・磯谷七郎右衛門 藪与 ・天草十大夫 筑紫与 ・宮部加右衛門 藪与 ・平松十三郎 頼母佐手ニ付 ・宮部権十郎 藪与 ・釘本半左衛門 ・財津少作 丹羽与 ・久野次郎吉 岩越与、次郎左衛門子 ・山田権十郎 永良長兵衛与 ・荒川三大夫 岩越与 ・津田山三郎 宇右衛門与 ・松浦弥一右衛門 丹羽与 ・山本小左衛門 筑紫与 ・牧助左衛門 国友太郎助名代 ・岩崎四郎大夫 筑紫与 ・重松伝兵衛 藪与 ・三宅勘三郎 沢村与 ・永瀬長三郎 道家与 ・財津三助 惣兵衛子、中小姓 ・郡与茂丞 岩越与 ・益田孫大夫 丹羽与 ・駒井左太郎 吉弘加左衛門与 ・魚住孫四郎 ・寺本少三郎 志賀左門与、家記ニ岩越惣右衛門与 ・河崎作之允・永屋少五郎 七郎左衛門二男 ・加来甚兵衛 吉弘与、次郎大夫子 ・真野善(吉)十郎 同、明官子 ・飯田勘五郎 筑紫与 ・門池杢兵衛 吉弘与、次郎兵衛子 ・山崎加平太 永良長兵衛与 ・福田甚大夫 沢村与 ・山内勘助 志賀与 ・川崎作左衛門 同与、作之允子 ・岩越九十郎 惣右衛門子 ・鈴江清右衛門 津田与 ・益田小兵衛 ・速川伊八郎 吉弘与 ・速川半四郎・平野八十郎 岩越与 ・大石惣十郎 吉弘与、与四右衛門子 ・住江八右衛門 志賀与 ・中路三郎四郎 志賀与 ・堀田九平次吉弘与、甚右衛門子 ・堀田左五大夫 同、所兵衛子 ・八木田少九郎 ・酒巻小膳 沢村与 ・入江少五郎 中小姓 ・弓削茂左衛門 舎人与 ・河勾義(藤)右衛門 ・森部権大夫 ・河崎三郎大夫 ・坂根少九郎 吉弘与 ・神山安左衛門 作事奉行 ・三浦伊兵衛  ・江藤八左衛門 金掘 ・陳山久兵衛 矢細工 ・本田三郎右衛門 塩奉行 古庄三之允 浪人 ・伊藤太郎左衛門 寺内五兵衛与 ・北村伝兵衛 ・竹下十左衛門 ・山本権兵衛 ・的場猪之助 平三郎子 ・大塚仁右衛門 藪与 ・安東山三郎 吉弘与、弥次右衛門子 ・松本山三郎 同、彦之進子 ・清田伝吉 同、五右衛門子 ・岩崎五郎助 ・田中大助 同、又助子 ・寺嶋主水 道家与 ・寺井十次郎 岩越与 ・山浦十左衛門 明石源左衛門与 ・難波善左衛門 ・井田小兵衛 寺内与 ・八並少助 ・本庄勘兵衛 津田与 ・郡安左衛門 ・村川作左衛門 杣奉行 ・大塚七郎左衛門 阿蘇郡一領一匹、西郡要人助組ニ加り来り候 等いつれも本丸石垣に着て働く、続猪兵衛 掃部嫡子也、掃部ハ庄助事也 は石垣を乗候得とも手疵を負、両三度御使被下候而引取候、小田原武兵衛・平井杢之允等よく働て手疵を被る、城中の防いよ/\はげしく手負死を致すもの多く候へとも、少も攻口を不退、乗越々々攻近ク、忠利君内外の様子を御見計被成、御近習の士卒も先手に加り力を合せ候へと御下知にて、新に鬨の声を発し御すゝみ被成、二ノ丸浜手に御陳を被移、上使衆も其跡に在て城乗の体を御覧あり、依之自他の先手衆各勢気を増、犬走に着て働者多し、中ニも阿部権十郎・其弟五大夫蓮池の上より屏を切破いらんと、兄弟共に暫く鑓にて突合、河喜多等か働く所ににて同くかせき候処、権十郎ハ石にうたれて本営に帰る、朝山斎ハ海手の角石垣を上り、上村理右衛門も同所より上り候処、石ニ而被打落、朝山も疵を被り候、藪熊之允・寺尾求馬も犬走に着、屏を隔鑓を合けるに、藪ハ両手に鑓創を被り、寺尾ハ石にうたれ疵を得る
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