入江伝右衛門はやくすゝむて水の手升形に着候処、左門殿御内安井半之助・出雲浪人奥村角之允一同に着、其次に紀州之士久村金右衛門・其子百助も来り、以上五人共ニ敵と鑓を合相働、あたり二三十間か程ニハ一人も其時付者無之、十四五間程下に大なるがけ有之ニ味方大勢居候を呼候処、足軽一人はやく来、鉄炮にあたり死し、其後大勢着候也
坂井七郎右衛門もはやく本丸塀下に着候を、屏の上より長刀二而鑓を切折候、其時高見権右衛門石垣下に居候ニ、詞をかはし、鑓を捨刀を抜、塀に乗上候処、鑓にてかぶとのはつれより肩を突、鑓共に忽落されけれとも、鑓をぬき、其鑓を持乗上り、右の敵を仕留候、然れ共深手ニ而働難成、家来に介られ退キ申候、越生儀兵衛は部屋住ながら津田三十郎組に被加、芦北御郡筒十挺御あつけ被成候を下知し、石垣に着てうたせ、関安之允も 後平左衛門、孫左衛門弟 無足ニ而居候へ共、御郡筒十挺引廻候様被仰付、松野左馬助組ニ而罷越候か、早々本丸海手の角に着、塀の内に大勢居たる敵ニわたり合鑓付候処、石ニ而かふとの鉢を打破、左の腕ニ鑓手を負、鉄炮にも中り、数ヶ所疵を被り候、金守形右衛門 松山権兵衛組 ハ浪士石橋久兵衛と共に海手の隅より四五間西の犬走に着て、鑓を城中に打込けるか、鉄炮に中り創を被る、宇野弥二兵衛敵壱人仕留、石垣をのほる時手を負、津田三十郎も組を下知し石垣に着て相働く、加藤左兵衛か嫡子加藤庄大夫・二男権助両人共に津田組ニ而罷越、庄大夫ハ御郡筒十挺御預被成、組之者召連、海手犬走に乗上り鉄炮打せ、権助ハ石垣下ニ而鑓を合せ手を負申候、小崎次郎左衛門・高橋太郎左衛門・松野縫殿・吉弘四郎大夫・上野悪助景信等同磡に付て力戦し、縫殿ハ塀越に敵を突伏る、星野庄助・上野善兵衛等も同所ニ挊候か、水の手口にて星野は鉄炮二あたり死す、坂崎内膳・丹羽亀之允・大木織部等を先として御児小姓二至迄、御免しを受て先手に加り候、御旗本ニも矢玉しけく来候間、御側を守候面々御矢表に立て、手負死を遂る者も有之候、中ニも生駒治左衛門為勝 御扶持方被下置、御懇之者浪人分也 鉄炮に中り御采拝の下に倒れ候を、太タ(はなはだ)御愛憐にて急に扶ヶ起し本営に返され候、野田喜三郎も御楯に参候と也
忠利君御歩使を以楯板を馬場三郎左衛門の前に立候へと被仰付候、依之御物奉行藤掛蔵人・山本三蔵支配の鷹匠手々に是を運候へとも、馬場殿ハ我前に付るに不及、屏下に付へき旨被申候間、屏下壱間はかりニ付て、立石助兵衛・佐分利半左衛門等相詰て鉄炮打せ候、大嶋彦左衛門組足軽を下知し、石垣の上なる敵を打せ候内、額を鉄炮に打れなから屏下に上り、足軽を下知いたし、尚又長谷川仁左衛門・清田又右衛門なと一所に来候得共、手疵強クいたミ堪かたく、白木貞右衛門一同に引取候、岩佐彦作 藪図書組 鉄炮胸にあたり 翌年死候 、其子源五も弐ヶ所手負候へともふりよく働候、此外磡をつたひ石垣を登り、屏下ニ着て乗入んとすれとも、蓮池の上ハ殊に石壁そばだち、竹木の切かぶ刃のことく進退自由ならす、其外の所も賊徒かさより強く防き、大木・大石・礱磨・鍋・釜其外色々の物を落し、煎砂・熱湯・糞土をかけ、篷の類に火をつけ投出し、それをのかれて塀越に働く面々をハ鑓長刀にて突落し、必死に成て防候間、石垣より打落され岸を下りニ、蓮池の際迄討死手負い若干にて、多くハ退屈して見へける処、光利君御馬を被乗出、此城いか程堅固なりとも土民の防術何程の事をか仕出すへき、寄手ハ一騎当千の英雄也、うしろにハ忠利君を初御目付及ひ上使衆相さゝへて見分あり、何もすゝむて高名を顕し候へとの御下知によりて、又一きわいさミを増し、各励て相働き候、長岡佐渡ハ最初本城攻かゝり候時、立允主の寄口よりも左に押廻り、池尻口の上よりよせ、竟に海手東之隅石垣の敷より九間三尺程ニせり詰、寄之ハ猶も石垣近く坂半ニ在、有吉頼母ハ本城西北の岸下蓮池のの頭三十余間ニ備へ、立允主ハ初より其中分の升形ニ着、何れも士卒犬走に逼る、志水新之允ハ石垣下ニ着て隊下をすゝめ手の者を下知し、其組平野治部左衛門・中根市左衛門父子足軽を下知し能鉄炮を打せ 市左衛門三丸・二丸小屋々々に居候敵をしたへ、火をかけさせ返り候、平兵衛所々にて働き候 組の足軽数多手負、高田角左衛門は出丸石垣下ニ而両股を被打貫、右の腕を石ニ而被打候へ共、出丸の下壱間程之石垣を上り、御鉄炮打せ候、二男九郎次も左之腕を鉄炮にてうたれ、組の足軽三人討死、八人手負、家来も五人手負候、角左衛門行歩不叶、手もこわり候へ共、居りなから下知を加江候由 後城ニ乗込、夜更候而組之者共船板にのせ、小屋に引取候
坂井七郎右衛門もはやく本丸塀下に着候を、屏の上より長刀二而鑓を切折候、其時高見権右衛門石垣下に居候ニ、詞をかはし、鑓を捨刀を抜、塀に乗上候処、鑓にてかぶとのはつれより肩を突、鑓共に忽落されけれとも、鑓をぬき、其鑓を持乗上り、右の敵を仕留候、然れ共深手ニ而働難成、家来に介られ退キ申候、越生儀兵衛は部屋住ながら津田三十郎組に被加、芦北御郡筒十挺御あつけ被成候を下知し、石垣に着てうたせ、関安之允も 後平左衛門、孫左衛門弟 無足ニ而居候へ共、御郡筒十挺引廻候様被仰付、松野左馬助組ニ而罷越候か、早々本丸海手の角に着、塀の内に大勢居たる敵ニわたり合鑓付候処、石ニ而かふとの鉢を打破、左の腕ニ鑓手を負、鉄炮にも中り、数ヶ所疵を被り候、金守形右衛門 松山権兵衛組 ハ浪士石橋久兵衛と共に海手の隅より四五間西の犬走に着て、鑓を城中に打込けるか、鉄炮に中り創を被る、宇野弥二兵衛敵壱人仕留、石垣をのほる時手を負、津田三十郎も組を下知し石垣に着て相働く、加藤左兵衛か嫡子加藤庄大夫・二男権助両人共に津田組ニ而罷越、庄大夫ハ御郡筒十挺御預被成、組之者召連、海手犬走に乗上り鉄炮打せ、権助ハ石垣下ニ而鑓を合せ手を負申候、小崎次郎左衛門・高橋太郎左衛門・松野縫殿・吉弘四郎大夫・上野悪助景信等同磡に付て力戦し、縫殿ハ塀越に敵を突伏る、星野庄助・上野善兵衛等も同所ニ挊候か、水の手口にて星野は鉄炮二あたり死す、坂崎内膳・丹羽亀之允・大木織部等を先として御児小姓二至迄、御免しを受て先手に加り候、御旗本ニも矢玉しけく来候間、御側を守候面々御矢表に立て、手負死を遂る者も有之候、中ニも生駒治左衛門為勝 御扶持方被下置、御懇之者浪人分也 鉄炮に中り御采拝の下に倒れ候を、太タ(はなはだ)御愛憐にて急に扶ヶ起し本営に返され候、野田喜三郎も御楯に参候と也
忠利君御歩使を以楯板を馬場三郎左衛門の前に立候へと被仰付候、依之御物奉行藤掛蔵人・山本三蔵支配の鷹匠手々に是を運候へとも、馬場殿ハ我前に付るに不及、屏下に付へき旨被申候間、屏下壱間はかりニ付て、立石助兵衛・佐分利半左衛門等相詰て鉄炮打せ候、大嶋彦左衛門組足軽を下知し、石垣の上なる敵を打せ候内、額を鉄炮に打れなから屏下に上り、足軽を下知いたし、尚又長谷川仁左衛門・清田又右衛門なと一所に来候得共、手疵強クいたミ堪かたく、白木貞右衛門一同に引取候、岩佐彦作 藪図書組 鉄炮胸にあたり 翌年死候 、其子源五も弐ヶ所手負候へともふりよく働候、此外磡をつたひ石垣を登り、屏下ニ着て乗入んとすれとも、蓮池の上ハ殊に石壁そばだち、竹木の切かぶ刃のことく進退自由ならす、其外の所も賊徒かさより強く防き、大木・大石・礱磨・鍋・釜其外色々の物を落し、煎砂・熱湯・糞土をかけ、篷の類に火をつけ投出し、それをのかれて塀越に働く面々をハ鑓長刀にて突落し、必死に成て防候間、石垣より打落され岸を下りニ、蓮池の際迄討死手負い若干にて、多くハ退屈して見へける処、光利君御馬を被乗出、此城いか程堅固なりとも土民の防術何程の事をか仕出すへき、寄手ハ一騎当千の英雄也、うしろにハ忠利君を初御目付及ひ上使衆相さゝへて見分あり、何もすゝむて高名を顕し候へとの御下知によりて、又一きわいさミを増し、各励て相働き候、長岡佐渡ハ最初本城攻かゝり候時、立允主の寄口よりも左に押廻り、池尻口の上よりよせ、竟に海手東之隅石垣の敷より九間三尺程ニせり詰、寄之ハ猶も石垣近く坂半ニ在、有吉頼母ハ本城西北の岸下蓮池のの頭三十余間ニ備へ、立允主ハ初より其中分の升形ニ着、何れも士卒犬走に逼る、志水新之允ハ石垣下ニ着て隊下をすゝめ手の者を下知し、其組平野治部左衛門・中根市左衛門父子足軽を下知し能鉄炮を打せ 市左衛門三丸・二丸小屋々々に居候敵をしたへ、火をかけさせ返り候、平兵衛所々にて働き候 組の足軽数多手負、高田角左衛門は出丸石垣下ニ而両股を被打貫、右の腕を石ニ而被打候へ共、出丸の下壱間程之石垣を上り、御鉄炮打せ候、二男九郎次も左之腕を鉄炮にてうたれ、組の足軽三人討死、八人手負、家来も五人手負候、角左衛門行歩不叶、手もこわり候へ共、居りなから下知を加江候由 後城ニ乗込、夜更候而組之者共船板にのせ、小屋に引取候