津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・36

2009-01-30 08:42:32 | 歴史
今日諸大将各手の者を励し、筑前家は大江郭を破て直に本城に乗むとし、寺沢家も共にすゝミ、鍋嶋氏ハ二の丸の先登也、立花氏・有馬氏・松倉氏をはしめ水野氏・両小笠原氏・有馬左衛門佐殿・松平丹後守殿・上使御目付の内衆・諸国の附使者・諸浪人迄我先とあらそひすゝミ、諸家中入雑り銘々分取高名して本丸の岸下に着、一図に攻入むと働候へ共、城中よく防て其功成難く、中にも心掛の勇士は五騎七騎弐人三人かけぬけて、御当手の攻口ニ相交り、疵を被り敵を討、一己の高名を顕し本丸に入たるも、同勢つゝかさる故、せんかたなく終に主人組頭を尋てむなしく立帰も多く有之候、水野日向守殿の嫡子美作守殿父子・有馬左衛門佐殿の嫡子蔵人殿ハ松丸ニ一番に乗込、前後を諭して被陳候得共、台使より度々の命によりて、後にハ先手鍋嶋殿手へ場所をわたし無是非後陳ニ被引取候、其外諸手共に本丸に入事不叶、各二の郭に屯せられ候、当手の人数ハ弥重り、本丸の燃る火と外屏の際に込合立たる鑓を横になす事もならさる程也、如此にては賊徒必死に極め火の中なり共突て出なハ、いかに思ふ共働なるへからすと了簡し、寺本久太郎急き御旗本ニ至、夜中は味方の前に柵をふらせ然るへきかと申上候、其所に馬場氏も御座候而、柵の事夜中と申、中々急にハ成かたかるへしと被仰候、久太郎其儀ハ私宜申付へしと云、忠利君永良長兵衛を召、今まての陳所にふり置たる柵を払ひ、久太郎に可遣旨被仰付候、永良畏り柵木奉行長谷部文左衛門に申渡候、文左衛門則其旨に応し、久太郎と共に裁判し柵を本丸に運はせ候、此時佐渡ハ先鋒と御旗本との中間に陳し、先手の安否を問ひ一々御本陳ニ相達、ミつから本城の内外を往来して敵間に柵を付度旨申上、津川四郎右衛門も柵木の事申上候、忠利君はや右之御意有上ハ、万端不滞、又沢村友好に被命、先足軽の前にはやく柵をふらせ候へと有、沢村畏柵木奉行村上市右衛門武正等に下知して調之候、寺本・長谷部ハ柵木を持せ数百人を召連、本丸に行かんとするに、石垣を上る時暗夜ニ而路ミへす、雑人甚恐れ鉄炮の音を聞て内に入兼ける間、両人色々ニさとし遂に本丸に入、寺本申候は、柵を振て然るへき場をハ我先歩行すへき間、跡に付て柵木持たる者ともを通すへしと示合せ、文左衛門ハ跡を抑て柵木持をくり出し、一尺はかり間を置柵を付る手配して、久太郎先二歩ミ、立留る所にて柵持銘々かつき来所の柵木を壱尺あひに段々立、畢て後引取へき旨申渡、皆夫々の一役を勤てかへり候、湯浅次郎太夫・河井権之允等も柵を奉行してもたせ来り、追々に柵集り候間、本丸海手半分切て 一ニ本丸三ヶ一乗取と有 壱面に柵をふり、出入なく付渡して、長谷部・湯浅・河井等ハかへりて御本陳に相詰候、久太郎ハ柵の前をあゆミ、此体なれハ夜中乗こむ事もかなはす、敵突て出る事ハ尚以成かたし、然れ共若壱人にても出候ハゝ、大勢の見方込合て惣軍の騒動也、夜中銘々前の柵を堅固に守、味方の乱れさる様に覚悟あるへき事、御人数の為専一の御奉公也といふて通り候間、皆尤と感し、面々前の柵木に竹木を集、横木を結渡、是を固め候、内には先手の足軽大将組を揃て相詰、興長か足軽頭をも加へて用心の鉄炮を打せ、篝数ヶ所に焼、軍使透間なく往来して堅固に相守候、寺本右之次第言上仕候へハ甚御感被成、御前ニ而湯漬飯を被下候、不破平大夫も先手並ニ引取、御鉄炮打せ可申旨御意を受、さくをふり可申旨被仰付候ニ付而、組の小頭春野仁左衛門大勢の中をおしわけ、さく持をつれ来り柵をふり、組中を引廻し鉄炮をうたせ能ク働キ申候

忠利君御本陳廻りかたく被仰付、かゞりを焼せ夜を御あかし被成候が、猶も御思慮有て御旗本并余の備の御鉄炮をも多くは先頭に被遣、代る/\鉄炮を打せ夜を明すへき旨被仰付候、然るニ先手に備へたる御鉄炮すてに玉薬尽へきの砌、中根市左衛門・同平兵衛父子足軽に下知し、火縄を掛たるはかりにて我差図を待候へ、妄の発す者ハ曲事たるへき旨声高に申渡、玉薬をかこはせ御本陳より多く来るを相待候

立允主ハ本城の放火静て後、忠利君・光利君の御本陣に至り、賊徒平定の佳詞を被述候、大阪御陳の時御合戦済候而、其まゝ三斎君・両上様江御歓被仰上候例を以の故と也、御供ハ半兵衛共ニ弐三人被召連候、夜ニ入五ツ半過比也

今夜亥の刻はかりに馬場三郎左衛門殿家士野中五兵衛足軽を引連、佐渡か陳に来申候ハ、御当家の御人数城内に詰られ候間、拙者ニも相加り諸事貴公の御差図を可受旨主人申付候間、宜く御計ひ可被下と也、佐渡領掌し、歩卒宇野吉大夫に本丸に伴ひ行へき旨申渡候、其道ニ而立花家の士と野中と不慮の口論有之候へ共、異故なく打通り先徒に加りて相働候
                                                二月廿七日項了
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島原の陣--決戦の日・・35

2009-01-30 08:41:45 | 歴史
光利君先時御出馬疲成候時、御昇弐本御先に入可申旨貫角右衛門ニ被仰付、三之丸ニ御昇を入候而段々すゝミ、蓮池之上石垣下ニ着居、本丸ニ御昇入候ハ日入方也、其時沢村大学参、角右衛門儀御昇り一番ニ入候所慥ニ見届、御前よりも被遊御覧候由也、紀州之御使者田屋五郎左衛門・中嶋平兵衛も見届ヶ一段見事ニ候、一番昇紛無之候間、後日之証拠ニ立、紀州ニ帰候ハ、大納言ニも可申旨申候而、角右衛門名をも承候

此外はやく本丸ニ乗入ハ、住江求馬助・成田四郎兵衛・安藤左内・梅原九兵衛・岡田甚五左衛門・福田六右衛門・加々尾八兵衛也、明石源兵衛・中根半之允・平井杢之允・小野権兵衛・明石玄左・荒木茂左衛門・小原無楽等ハ乗込候而何も手に合候、右之外直士・倍士・諸浪人・他家の士卒も相交て我劣らしと挊候間、高キに居て嶮に拠り是迄防きこらへたる徒党共、平場鑓太刀の勝負ニ臨ミ、日比鍛錬の勇士にかり立られ、防術尽て見へたる上、放火しきりにして本城もなかは焼立候間、わつかにしまりの屏の内に入、煙を避てひそまり候、味方も煙に隔られ其上日暮候間猥にすゝます、此時津川四郎右衛門追手升形の内に居けるに、松井新太郎行逢、火勢甚盛ニ候故、煙を避罷在候、先刻よりたゝ先にすゝむのミ心として、佐渡か居所をも不存心許なく候と云、津川答て佐州御父子共に随分勇健にして御下知有之候、火静らハ定而四郎突出へし、左あれハよき場也、待受て討取へしと相議し一所に在、其外思ひ/\に敵に取はなれ火を除て相さゝへ候、忠利君二の郭に御陳を御すへ、飛札を以府内御目附に被仰遣、三斎君江も被仰進、江戸御留守居江も被仰下候、
御目附衆江之御注進状

         先刻以飛札申入候、二の丸・三の丸はや七ッ時ニ
         乗込切捨二仕候、本丸は同日酉ノ刻ニ乗込焼申候
         何も一度ニ相済目出度存候、かたのことく手負も
         多御座候、諸手之事は不存候、手前之事計申入候
         恐惶謹言
           二月廿七日
                    細川肥後守
                        光利
                    細川越中守
                        忠利
            川勝丹波守様
            佐々権兵衛様
            日根野織部正様
                 人々御中

  右注進一番に到着、三人共大に悦ひ、即刻早打を以直に此書を江府に差上御注進有之候と也
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