津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

あと23年

2009-01-04 12:39:41 | 歴史
 細川家の肥後入国は寛永九年(1632)十二月九日のことである。熊本県立美術館の「永青文庫展示室」に於いては、1/6~2/15関ヶ原と細川家、2/17~3/29まで誕生肥後細川藩が催される。細川藩草創期の貴重な資料を、まとめて展観できることを期待して待っている。

 忠利の熊本治世は僅か九年である。病がちであった忠利は、天草島原の乱での出陣など無理を重ねている。寛永十八年正月、忠利は八代に父忠興を訪ねているがその帰途十八日、足にしびれの症状を発して病状は次第に悪くなっていく。医師・高本慶宅の病状日誌は深刻さを伺わせる。死の直前の光尚宛の忠利の直筆、「右のてくひより手なへ申計ニ候、しに可申様ニハ無之候、可心安候」が何とも痛々しい。そして急報を受け八代から駆けつけた忠興が、これも光尚に当てた書状「越中躰を見申処、はや究り申し、人をも見知り申さず、目も明き申さざる躰に候、言語を絶し候(中略)我々事の外困り、正躰もなく候間、わけも聞こえ申すまじく候」も、思いがけない我が子の死に動揺する様子が、何ともやりきれない。享年五十六。

 私は肥後細川藩藩祖・忠利公については、大いに顕彰されて然るべきだと考えている。入国400年の2032年には、盛大な記念式典で盛り上がって欲しいと思う。私はといえば果たしてこの世に在るかどうか判らないが、できれば共に祝えたら望外の幸せである。その刻私は90歳・・・がんばってみるか、あと23年・・
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