「島原の陣--決戦の日・・23」では、壮烈な最後を遂げる尾藤金左衛門が登場している。
熊本の著名な作家某氏が、尾藤金左衛門を「尾藤金キャツ左衛門」と紹介した文章を読んだが、私はいまだその根拠を知らずにいる。名乗りを上げている最中に、鑓で突かれたというのである。綿考輯録を読むと、どうもこの話は胡散臭く思える。実証による文章を得意とされる氏にしてはいただけない話だ。
金左衛門の父・尾藤甚右衛門知宣(一成)は讃岐十八万石の領主であったが、天正十五年改易となり、後秀吉により切腹させられている。綿考輯録は金左衛門は知宣の六男と記すが、二男とする資料もある。余談であるが、改易に際し代官を勤めていた加藤清正は、尾藤家の武具調度を秀吉から与えられ、その家紋である桔梗紋をも受け継ぎ、従来の蛇の目紋と合せて用いている。
ja.wikipedia.org/wiki/尾藤知宣
金左衛門は、福島正則・森美作守等に使えた後、寛永十二年七月細川忠利に召出され知行三千石、左着座、熊本城内に屋敷を与えられたが、一部に反対の意見があったとされる。その折の藩主忠利の、「尾藤か異心なき事ハ被知召由の御意有之候」ことを伝え聞き、大いに感激して「若し事あらハ此恩を奉らん」と決意していたという。このことが冒頭の果敢な彼の行動に繋がっている。
さて、熊本縣史料・近世編第二「部分御舊記・御書附并御書部廿三」p241に次のような記事が有る。
寛永十二年
尾藤金左衛門子甚丞舟破損仕夫婦子共船中之人不残相果候由
無是非儀候 金左衛門ニハ数馬殿家則相渡米なとをも奉行共よ
り渡候由得其意候叓
十二月三日 忠利
金左衛門が忠利に召し出されて後、嫡子甚丞夫婦を呼び寄せているが、その船旅に於いて遭難して亡くなっている。尾藤家三代の死はそれぞれ悲しく迫ってくる。
熊本の著名な作家某氏が、尾藤金左衛門を「尾藤金キャツ左衛門」と紹介した文章を読んだが、私はいまだその根拠を知らずにいる。名乗りを上げている最中に、鑓で突かれたというのである。綿考輯録を読むと、どうもこの話は胡散臭く思える。実証による文章を得意とされる氏にしてはいただけない話だ。
金左衛門の父・尾藤甚右衛門知宣(一成)は讃岐十八万石の領主であったが、天正十五年改易となり、後秀吉により切腹させられている。綿考輯録は金左衛門は知宣の六男と記すが、二男とする資料もある。余談であるが、改易に際し代官を勤めていた加藤清正は、尾藤家の武具調度を秀吉から与えられ、その家紋である桔梗紋をも受け継ぎ、従来の蛇の目紋と合せて用いている。
ja.wikipedia.org/wiki/尾藤知宣
金左衛門は、福島正則・森美作守等に使えた後、寛永十二年七月細川忠利に召出され知行三千石、左着座、熊本城内に屋敷を与えられたが、一部に反対の意見があったとされる。その折の藩主忠利の、「尾藤か異心なき事ハ被知召由の御意有之候」ことを伝え聞き、大いに感激して「若し事あらハ此恩を奉らん」と決意していたという。このことが冒頭の果敢な彼の行動に繋がっている。
さて、熊本縣史料・近世編第二「部分御舊記・御書附并御書部廿三」p241に次のような記事が有る。
寛永十二年
尾藤金左衛門子甚丞舟破損仕夫婦子共船中之人不残相果候由
無是非儀候 金左衛門ニハ数馬殿家則相渡米なとをも奉行共よ
り渡候由得其意候叓
十二月三日 忠利
金左衛門が忠利に召し出されて後、嫡子甚丞夫婦を呼び寄せているが、その船旅に於いて遭難して亡くなっている。尾藤家三代の死はそれぞれ悲しく迫ってくる。