津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

尾藤金左衛門家、三代の死

2009-01-23 15:06:16 | 歴史
「島原の陣--決戦の日・・23」では、壮烈な最後を遂げる尾藤金左衛門が登場している。
熊本の著名な作家某氏が、尾藤金左衛門を「尾藤金キャツ左衛門」と紹介した文章を読んだが、私はいまだその根拠を知らずにいる。名乗りを上げている最中に、鑓で突かれたというのである。綿考輯録を読むと、どうもこの話は胡散臭く思える。実証による文章を得意とされる氏にしてはいただけない話だ。

 金左衛門の父・尾藤甚右衛門知宣(一成)は讃岐十八万石の領主であったが、天正十五年改易となり、後秀吉により切腹させられている。綿考輯録は金左衛門は知宣の六男と記すが、二男とする資料もある。余談であるが、改易に際し代官を勤めていた加藤清正は、尾藤家の武具調度を秀吉から与えられ、その家紋である桔梗紋をも受け継ぎ、従来の蛇の目紋と合せて用いている。
        ja.wikipedia.org/wiki/尾藤知宣

 金左衛門は、福島正則・森美作守等に使えた後、寛永十二年七月細川忠利に召出され知行三千石、左着座、熊本城内に屋敷を与えられたが、一部に反対の意見があったとされる。その折の藩主忠利の、「尾藤か異心なき事ハ被知召由の御意有之候」ことを伝え聞き、大いに感激して「若し事あらハ此恩を奉らん」と決意していたという。このことが冒頭の果敢な彼の行動に繋がっている。

 さて、熊本縣史料・近世編第二「部分御舊記・御書附并御書部廿三」p241に次のような記事が有る。
      寛永十二年
      尾藤金左衛門子甚丞舟破損仕夫婦子共船中之人不残相果候由
      無是非儀候 金左衛門ニハ数馬殿家則相渡米なとをも奉行共よ
      り渡候由得其意候叓
        十二月三日               忠利

 金左衛門が忠利に召し出されて後、嫡子甚丞夫婦を呼び寄せているが、その船旅に於いて遭難して亡くなっている。尾藤家三代の死はそれぞれ悲しく迫ってくる。


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島原の陣--決戦の日・・25

2009-01-23 11:40:41 | 歴史
備前隼人も石手を被る、家来も死傷の者多く有之候、隊下の御番頭松野右京・嶋又左衛門組々を下知し、磡に着て働輩多く手負も有之、又左衛門は進て討死を遂、組衆ニ而遠坂関内・住江茂左衛門・福田助十郎・加々山市大夫等同所にて討死いたし候、小笠原采女・佐々庄左衛門等も屏下に着て創を被り候、高原茂兵衛ハ尾筋より本丸升形のきわに着、敵壱人突伏候処もゝに鉄炮疵を被り引取候、清田石見も頻りにすゝミ候に、石垣の根にて脇乳の上を鉄炮にて打れ倒れけるを、家士池田孫大夫扶起し小屋に引取むとせしを、御旗本につれ行候へとて、清田石見手負候而只今引取候と高らかに名乗、其外諸手の人数集まりたる所ニ而は右のことく呼ハり通り候間、石見か手負たる事知たるもの多かりしと也、組衆にては岩越惣右衛門を初、小坂半之允 討死、跡支配小坂新八仕候 ・松岡久左衛門・八木田小右衛門等鉄炮に中て死し、手負数多有之、自分者も数人手負候と也、町熊之助 丹羽亀之允与 は石垣之根にて胸板を突れ脇へそれたるを、不透其鑓にすかり引奪むとしけれハ賊大勢にて引を、熊之助か小性五右衛門同く鑓に取付しはらく引合候、熊之助道具落しに手をかけつよく引ける故、終に奪取候へハ、諸人も是を感し、忠利君も御賞美被成候、賊はしきりに矢石を発し、小性五右衛門もつらをうたれ候

清成八十郎も蓮池の脇よりはやく石垣に着候に、敵強く防き手負討死多く、惣勢両度まて石垣下を甘け候にも八十郎ハ残り居、味方四五人追々ニ着、一同に犬走に上り塀を越候を鑓数にて突落し、立あがる間もなき程石を打候ニ付、八十郎か鑓の柄・立物も打折候、暫くして起上り塀に乗上る所を又鑓数ニ而数ヶ所の手疵に候得とも、石垣下に見合せ、息を入罷在候、弟十五郎 十五歳、後ニ吉之允と改 は御児小姓二而御側に居候ひしか、先ニ御ゆるしを請て直膚にてすゝミ来り、兄弟一所に居候処、浪人奥田藤左衛門来り、八十郎ハ深手と見へたり、被引取候へといへとも不承引、家来森九右衛門も働石手を負候也、中根半之允・上津浦太兵衛・財津少助・丹羽友之允等一所ニ而相働く、木村次左衛門ハ御先手に被遣候ニ、小笠原備前海手の塀下ニ着居たる所に参り、御意之趣申渡、直ニ進んて明石源左衛門・成田四郎兵衛・小野権兵衛等一所ニ浜手の塀手ニ着、次左衛門手負候ニ付備前見て手負の様子見届候、先引取候へといへとも、直ニ乗込んといたし候か石に当り、まひさしを額に打込れ、重手にて正気を失ひ臥候処、家来森庄三郎と申者肩にかけ除申候に、其者も石にて打倒され、余のものゝ肩にかゝり引取候、竹原少大夫 永良長兵衛与 ・下村五兵衛・続平右衛門・都甲太兵衛なとも海手東南之角わき石垣に着候内に、十六七ほとの御小姓猩々緋の羽折を着、衆に抽て来候間、平右衛門・五兵衛見て同勢も多く不参に、若年ニ而扨々見事成ふりと再三感し、鉄炮・石火矢なとも間もなく参候間、かふとをかたむけ候へと度々申候、右若者ハ浅井三郎四郎なり、塀越に鑓を合せ相働く、此所ハ石垣の高サ三尺はかり、石垣きわより塀迄の犬走ひろさ五六尺程有之候由、平右衛門石垣に三度上り鑓を入る、右面々之外同所犬走に着て働くハ、野田小三郎 右京与 ・弓削太郎右衛門・佐田彦兵衛・広瀬杢之助 又左衛門与 ・小林半三郎 九郎右衛門与 ・長良孫大夫 谷与 ・曽根権三郎 津田与 ・樹下太右衛門 丹羽与 ・久武千助 道家与 ・蒲田源大夫 道家与 ・竹内次郎大夫 宇右衛門与 ・佐分利千蔵 津田与 ・牧文四郎 吉弘加左衛門与 ・秋吉茂左衛門 横目 ・松見長右衛門 横目 ・古庄次左衛門 薪奉行 ・沢村弥平次等也、河尻御船手郡喜兵衛・武井七郎右衛門・河村久大夫等ハ本丸追手口にて討死いたし候、瀬崎伊右衛門・嫡子次郎四郎両人共ニ石垣の上下度々鑓ニ而掛合、次郎四郎鑓を合せたる敵引取候ニ付、石垣に乗上る所を石ニ而打落され、具足かふと打ひしき候、佐田長三郎先二二丸にて小屋ニ居たる敵一両人突殺しすゝむて此所ニ来候ニ、塀の破れ口有之、殊ニ矢石烈敷石にうたれ候へとも其まゝ着こらへ、敵味方しらミ候節被仰付置候馬上筒神西金右衛門二詞をかけ打、塀越にハ鑓をも合せ候、入江八郎兵衛・瀬崎次郎四郎・戸田左門殿内大見又兵衛なと一所に働き候 此三人の証拠状今以佐田造酒助伝来候
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