津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・24

2009-01-22 17:51:29 | 歴史
右の外名ある者とも大石に中るを興長憤り、国友式右衛門・中根市左衛門・谷忠兵衛を初、家来橋本角右衛門・下津半助等の足軽頭に下知し、修練の者共に打せ候へ共、塀の上の賊にあたらす、橋本すすミ出、此賊をハ我等打落すへきそとて、細川手の鉄炮頭橋本角右衛門定勝と云者城上の賊を唯今打落候と高声に呼り、廿余間にして発けるに、彼賊か胸板に中り、大石をさし上なから打落されけれは、城外一同に感之、台使も御称美有之となり、興長父子いさミすゝみ、諸士も勢ひに乗て相働く、熊谷忠右衛門も起上り、屏の手に付てかせき候ニ、直鑓をきり折れ、十文字を取てたゝかひ候、熊谷か差物金の筋角の弐尺はかりなるか、夕陽にかゝやき敵味方共によく見へ、城中よりも鑓長刀等しけく突出し候を切はらひ打ひらきせり合、鑓の鎌にて敵の頭をも突切候ニ、又石にうたれ犬走より落る時、山田新九郎手に附たる浪人感詞をかけけるに、はやく参り挊かれよと云中、其者石にうたれ蹈とめかねて熊谷か若党八右衛門に取付候を、弱き仁かなと云て引立る所ニ、また大石来て打殺され候、其時松山兵右衛門来り詞を交す、城よりハ篷に火を付て投出候に、熊谷か笠印の角紙燃上り候を松山是をもミ消シ、同所に人もなき故後証にたのむへしと云、熊谷聞ていはれさる証拠を求むよりよく挊候へと云て、同しく犬走に居るに、賊松山か鑓を切折る、松山刀に手をかけ弓矢八幡鑓をきり折たと云、忠右衛門か家来八右衛門聞て鑓切折れたるか手柄ならハ、忠右衛門も一本の鑓ハ切折候と云を、熊谷何を度法もなき事とてしかり付る、扨城中より突出す鑓を松山幸と奪むとするに、八右衛門も取付て引合候を、熊谷見て引折候へと云内に、城中より大勢にて急に引故、松山掌に創を得候、馬場三郎左衛門殿の手に附たる浪人山口新兵衛 後ニ沢村宇右衛門に仕へ、山口彦助と云、其子も彦助と云 、山口三大夫追々に来り、栗生市郎左衛門も鑓弐本もたせ来り、一本ハ御用に立んと云、松山喜ひ其鑓にて相働く、熊谷か若党八右衛門狭間の内を窺ひける所を、鑓にて額を二ツ突切れ眼に血入てくるしミ候、壱人の若党与右衛門も浅手負候へ共狭間に刀を突入、鍔にて塞き、主人を働かせ候、鑓かつき来たる僕も犬走に着むとせし時、鉄炮にて眉間を打れ死す、松山が僕も付来候か、高紐のはつれたるをかけさせる時鉄炮に中り死す、忠右衛門又々石にうたれ、此度ハつよく痛ミ歩行不叶候間、弐人の若党を近つけ、もはや我等ハ物の用に立かたし、両人共に退候へと云、八右衛門申候ハ、主を捨て何方へ退候へきとて、肩にかけ引退候間、御旗本にて肩より下平伏仕るを、忠利君手負たるかと被仰候、熊谷敬て創を被り歩行不叶、是まてハ引取候、御側無勢に相見へ候間詰候ハんと言上候へ共、一刻もはやく小屋にまいり保養仕れと被仰候、八右衛門まかり出、忠右衛門儀かたのことく相働、二本の鑓一本ハ切折れ候と申上候、熊谷にらミ付憚りを不存推参ものとつよく叱り候、忠利君ハ猶も御機嫌よく、働の体見届たり、急キ小屋ニつれかへれと被仰候

原田十次郎ハ以之外相煩歩行難成候得共、城乗にはつれ候事をいきとをり、弟十兵衛 十六歳 か肩にかゝり御本陳より参候ニ付、漸此砌此所に至り松山か犬走に上り居りたるを見付、彼所に上り候へと申候ニ付、十兵衛兄を犬走りに押上其身も一所に居候処、内より十次郎を鑓にて突を松山其鑓を取、十次郎と二人にて引合候得とも足たまりあしく、内ハ大勢故鑓をはなし候、松山兵左衛門并ばび六左衛門と云者此所二而手を負、上田久兵衛・矢野勘右衛門なと追々来り鑓にてからち合、久兵衛は鑓切折られ候へ共、原田兄弟一所に在て相働候、村上市右衛門 此比ハ才十郎ト云、嶋又左衛門与 ・柏木庄九郎 右京与 ・小林半大夫 松野与 ・住江四郎兵衛 嶋与 四人ハ柵木の奉行被仰付置候処、既二落城と見へ候へハ、柵木の御用も有之間敷、又始末相勤候様ニとも不被仰付候間、本丸ニ掛り可働と申談、四人共二西の方塀ニ付挊候ニ何れも手負、中にも市右衛門か持たる鑓を城内よりなた長刀ニ而切折、大石ニ而被打落、絶入いたし候得共、漸二正気付候由、北里次郎左衛門 沢村宇右衛門与 塀際二着候処、一揆大勢出向、城外を見る所を次郎左衛門寸鑓を以七八人突落、雑人ゆへ首を不取、然処切支丹共十人計抱石を以一度に投打、次郎左衛門か冑の天辺にあたり候得共、塀を乗入へきと仕を、沢村宇右衛門見て其手疵ニ而何事をいたし候哉、退候へ、御両殿様御耳に立可申と頻に申候ニ付引取候時、忠利君御覧被成候而、次郎左衛門と御詞を被為掛候、寺本久太郎直運 後改次豊 も二の丸よりハ御先に進ミ、岩壁を攀て可乗入所を窺候に、敵犬走に出入する破口有ニ筵を壱枚釣置たる所有、其所には壱人も着たる者無之間こゝより乗入むとすれ共、唯壱人にて賊は大勢也、筵を隔鑓を合する内に、大木織部兼久 此時ハ四郎兼久と云 同所に来りて相働く、松井新太郎ハ先に尾藤と共に石垣より落たる時指物竿折れ、印付三尺はかり有しを副頭田原清兵衛を頼さし、大木織部か側ニ乗上り敵に打折れたる竹を捨るを御見届候へと云、織部答て、其方唯今の働見届たり、但おれたる竹を空しく捨んよりハ、石垣ニ納め置候はでと云、正元実もと思ふ内に亦石に打たれ冑の立物をも打破しかハ、是をも取て織部に告、差物竹と一ツに石垣ニ押入置候

新太郎か家来も手負討死多く候へ共ひるます、組足軽に下知して敵を打落させ少も攻口を甘(くつろ)けす、同所ニ而働く面々志水新之允・大木織部・寺本久太郎・保科肥後守殿の使者山田九大夫 一ニ木下右衛門大夫殿の使者共有 ・水野家の士三好次郎九郎・興長か内二而松井采女・同半右衛門・田原清兵衛・同角十郎等也、大木織部は鑓疵を被り候間、御旗本より度々御使来り引取へき旨なれ共、其時分少うしろに疵を被り候間、此分にては引取間敷由相報しさゝへ居たりしに、重而御使来り是非伴ふてかへり候、志水新之允嫡子吉之允 十四歳 父と一所に犬走に着、家来いつれも粉骨をつくし手負討死有之候、小笠原備前父子も塀下ニ而下知をくはへ、民部隼人先に進ミ石垣を上り候処、城中より磑を落したるに中り、民部数十間の谷底にまろひ悶絶せしを、家士芥川杢左衛門冑の鉢に蓮池の水を入来り 一ニ渋手拭に浸しと有 面を淋候へハ、少息出しか共存命不定に見へけるを、杢左衛門介抱仕、鑓持土左衛門と申者肩にかけ本陳にかへる
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大失態

2009-01-22 08:59:58 | 徒然
 昨日のブログ「漢字のお稽古」にコメントをいただいた。「綿輯録と綿輯録はどちらが正しいですか」とのお尋ねである・・・。「もしや・・」と思って確認すると、「綿輯録」とタイピングしている。

 当然のことながら「用語/用例登録」をしており、これが原因であることは容易に想像できる。あわてて確認すると、なんと両方が登録されていた。「綿輯録」の登録を削除した。これからが問題である。現在1,478件のブログを書き残しているが、昨晩から全てをチェックしようと取り掛かった。果たして何日掛かることか。自業自得の大失態である。
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