津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・27

2009-01-24 18:20:31 | 歴史
いよいよクライマックス
衆軍粉骨を尽し候へともいまた本丸に乗入者なし、光利君御歩頭田中左兵衛氏久を被召、志水久馬に隊下の士卒とともに先手に加るへき旨を示し、左兵衛もともに参候へと被仰付候間、組をも召れ可申かと申上候へとも、御近習御人少きの間、組ハ連ましき旨ニ付、歩衆に向て先手の働よりハ御旗本に相詰候儀第一の功なり、能々守護有へしと申聞、其身ハ久馬に御下知を伝へ共二進て先手に加り、直に本城の石垣に至る、矢石間断なく篙(トマ)萱に火を付て投落す事頻也、度々是を蹈消堪居けるに、野田弥三左衛門・志垣小伝二・林喜助・同人若党其外他国の諸士等一所に有て名乗合候、惣兵一番衆を心懸詰寄候、中にも左兵衛ハ是非共先登を志し、海手の隅脇の石垣攀て犬走に至、七八間程屏のなき所より高サ弐間はかりの石垣をのほり、直ニ一文字に乗込、細川肥後守内田中左兵衛本丸の一番乗と名謁て郭中に突入る、志垣小伝次続て乗入ル、賊二三百人群て見へける、中より五六人進出鑓を揃へ突懸る、田中鑓を合、壱人を突伏る、其外五人十人宛段々に来る、多勢を相手に鑓を合て又壱人突倒すに、其者程なく起上りしを志垣小伝次透さす突止る、され共敵大勢にて取つゝミ、志垣も討れ、田中か若党立石九左衛門も進むて討死、阿部市大夫・林喜助・同人若党惣兵衛・石谷殿手の浪士福田一郎右衛門等追々に乗入、一所二て鑓を合賊を討、此砌賊徒共鑓三本田中に突懸しを、二本ハ蹴落候えへとも壱本ハ左の腕にしたゝかに立、左右のもゝ足も少し突せ候、林か若党惣兵衛走り寄、此鑓を取捨る、其外石垣を登りし時も石二打たしかハ手足も自由ならす、今は是迄と思ひて南無八幡と唱、尚々すゝミ大勢の中に突て入、向ふ者を追まわすに敵も立向ひ/\突立候間、五六本まて中り候へ共通らす、いよ/\必死に極め突てまはるに、頭面肩先手足まて石手・鑓手廿余ヶ所に創を蒙り、身体すくミ眼もくらミけれハ、福田市郎右衛門に向ひ、田中左兵衛一番乗を勤、唯今迄の働見届たるかなど云内に、歩御小姓八並少助鉄炮を持居けるを見て、あれ打候へと云て賊壱人うたせ候、塩津九右衛門も一所に在、敵又群来るを左兵衛三度鑓を合す、然共金瘡甚痛ミに耐さる故、もはや是迄也、時分よきそ、いつれも乗入候へと大勢の味方に度々言をかけ、家僕に扶られ引取候、益田弥一右衛門其時石垣の下に有けるが、田中ハ疵を蒙と見へたりと云、左兵衛聞て益田なるか今攻上ルにや、我は先刻より城中にて相働、如是手負たる故むなしく帰る也、働て高名せよと言をかはし候

肥後勢本丸海手の隅より西の升形口迄の間屏下ニ而せり合事一時はかり、人持物頭を初手負討死数多有之候へ共、少も攻口を去らす、各乗越々々働を伊豆守殿御覧候而、はや日も晩景に及候、一旦攻口を甘け、明日本丸を攻抜へきと戸田氏に相議せられ、軍使を以諸手江此旨示され候、実も御当家の士死傷の者千三四百も出来候程の儀なれハ、忠利君も御同意ニ而先手に軍使をはせ、上使よりの御下知也、先今晩ハ人数を揚、明日早天より可攻入と被仰下候へとも、いつれも命に応せす、立孝主御請二今下り候へと被仰下時分ニ而無之候、弥其通なるかと被入念候所、弥御おり候へとの御意之由申候、然共其使番を見知さるとの事故、重而佐和市兵衛を以御下知候へ共、是も御見知無之とて御承引なし、御側よりあれハ沢市兵衛と申仁ニ而候と申候へハ、偖ハいつれも見知たる人か、御諚畏入候と被仰なから未升形下ニ御座候、志水新之允も命にしたかはす、家士岡部形右衛門組足軽を下知して横矢ひしき場にこらへ居候か、透を見て屏の上に乗上る所を賊見込て打、鉄炮少さかりて形右衛門か太股を打抜けれハ、忽城外ニ落て苦痛せしを、家来扶け起し背負て本陳にかへり候
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島原の陣--決戦の日・・26

2009-01-24 10:58:45 | 歴史
立允主ハ城中の鉄炮はけしきをも不厭、石垣下ニ蹈居へおはしまし候処、伊豆守殿の家士使番之由奥村 一ニ奥田権之允・関屋四郎兵衛・長谷川源左衛門三人、諸手の様に見廻り候とて此所ニ進来指物ハ赤き絹なひきの様成ものにや銘々鑓を持、下人四五人計と見へ候と也 、御座所より二三間程下ニ立やすらひ候、出立之様子伊豆殿御家来と見知、右三人ニ半兵衛申候ハ、越中守弟細川立允先刻より是ニ一番ニ着、御覧之通馬験をも一番ニ上候と申けれハ、三人の士憚なから立允公を見覚度と申候ニ付、御側ニ居候者聞き候へハ御顔を見候而申上候ハ、扨々はやく是に御付被成見事成御座所ニ而、殊ニ御馬印迄も一番に揚り候事御手柄ニ而御座候、伊豆守ニも懇ニ可申聞由申候、其後又申候ハ、此所ハ出丸よりの横矢夥しく中々屯り難き所也、大将の御座所にハ軽々敷不相応なれハ是非共今少御下り有て可然由申候、立允主聞召、志方を以被仰候ハ、いかにも爰ハ一陳のきひしき所ニ而候、越中父子よりも度々おり候へと使を越候へとも、しかと是ニ居申候、此方ハ善悪共ニ越中守下知に任する事なれハ、各かともかくもと有、三人申候ハいかにこたへにくき所にて候共、立允様御座候に我等匹夫たり共得こそハ下り申ましとて控居申候 弐人ハこらへかね無程おり候得共、壱人ハこたへ居申候 、此外他国の士追々御座所に来、立允主に御目ニかゝり、よき所に参、のちの証拠に可仕儀冥加に叶候とて悦罷在も有之、佐方源助矢立を取出し名を書付置候也
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