私の手元に平成14年6月2日の「熊本日日新聞」の切抜きが有る。一枚の写真が「県内最古級の肖像写真」として紹介されている。熊本藩士藤本吉太郎の明治四年の写真である。東京の浅草で撮影されたらしいが、既に頭はざんぎりで、軍服とおぼしきものを着て椅子に腰掛けている。右手に大刀を持ち、左手は扇子らしき物をもっているが・・・下駄履といういでたちである。その没年からすると、30歳といったところか。
「島原の乱--決戦の日」をご紹介している中で、綿考輯録にそのご先祖様の記載を発見した。その人・藤本勘助は当時七十三歳、小笠原備前の旗を本丸に一番乗りしてかかげ名乗りを上げたが石手を受け疵を被っている。
「藤本ハ加藤清正に仕へて朝鮮にて抜群の武功有事を松井康之聞及ひ、忠興君に執成、三百石にて被召出、今年七十三也、備前隊下にて嶋又左衛門組也・・・藤本手疵平癒して黄金・時服被為拝領候、嫡子九右衛門 筑紫与 ハ別禄百五十石被下置候、是も蓮池辺にて鉄炮に中り手疵平癒せす、帰陳の上死せし也、藤本伊左衛門ハ勘助か二男別禄也」 綿考輯録・忠利公・下p61)
その伊(猪)左衛門の子孫が、吉太郎である。忠利死去に際し殉死した寺本八左衛門の介錯役を、同名猪左衛門が勤めているが二代目殿であろうか(まだ先祖附で確認していない)
なお、藤本勘助が登場する「島原の乱--決戦の日・・20」は、人名が多く大変手間取っている。少々お待ちいただきたい。
「島原の乱--決戦の日」をご紹介している中で、綿考輯録にそのご先祖様の記載を発見した。その人・藤本勘助は当時七十三歳、小笠原備前の旗を本丸に一番乗りしてかかげ名乗りを上げたが石手を受け疵を被っている。
「藤本ハ加藤清正に仕へて朝鮮にて抜群の武功有事を松井康之聞及ひ、忠興君に執成、三百石にて被召出、今年七十三也、備前隊下にて嶋又左衛門組也・・・藤本手疵平癒して黄金・時服被為拝領候、嫡子九右衛門 筑紫与 ハ別禄百五十石被下置候、是も蓮池辺にて鉄炮に中り手疵平癒せす、帰陳の上死せし也、藤本伊左衛門ハ勘助か二男別禄也」 綿考輯録・忠利公・下p61)
その伊(猪)左衛門の子孫が、吉太郎である。忠利死去に際し殉死した寺本八左衛門の介錯役を、同名猪左衛門が勤めているが二代目殿であろうか(まだ先祖附で確認していない)
なお、藤本勘助が登場する「島原の乱--決戦の日・・20」は、人名が多く大変手間取っている。少々お待ちいただきたい。