津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

山本勘助の孫

2009-01-17 11:37:41 | 歴史
 一昨年の大河ドラマの主人公・山本勘助については、その存在すら否定された時期があった。多くの史料はないが、今では実在の人物であったとされる。綿孝輯録もその史料の一つに加えてもらいたいと思うのは、次の記述である。(綿考輯録・巻四十六 忠利公・下p58)

 「島原の乱--決戦の日・・19」の冒頭に、下村伝蔵なる人の奮戦ぶりか記されている。その事に付いて綿孝輯録は付記として、次のように書いている。

  「伝蔵か父ハ下村己安と申候而山本勘助か孫也、勘助河中嶋ニ討死いたし候時、嫡子・二男
   共ニ討死、三男ハ幼少ニ有之候しを、家女かくし置、後ニ下村安笑と申候、其子下村己安三
   斎君於豊後召出、御知行三百石被下、伝蔵も部屋住の時より百石拝領、八代江も被召連候、
   原城後百石御加増、後ニ伝右衛門と改申候、三斎君・立允主も御死去後、丹後守殿ニ相勤、
   其後御暇申候而熊本二而致病死、其子孫当時南郷一領壱匹下村伝右衛門也」

 「妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳軽輩末々共ニ」によると、「三斉様御附中津ニ相詰候衆」の中に、「弐百石・下村巳(ママ)安、百石・下村傳蔵」が認められる。肥後入国後の消息としては、肥後讀史総覧に掲載されている「八代分領侍帳 正保二年十二月」に、「下村伝蔵・弐百石」とある。又、細川三齋が亡くなった後の丹羽亀之允による、八代衆の動向を記した文書(正保三年三月十六日付・八代侍衆知行高之覚--丹羽亀之允言上之覚・所収)によると、下村伝蔵については次の様にある。
「弐百石--下村傳蔵 右者松井右近子孫作ニ志うと(舅)ニ而御座候」

 ただこれだけの話なのだが、大変興味ふかい話では有る。ご子孫はいまだ南郷(阿蘇)においでなのだろうか。

 松井右近については、2008年09月10日のブログ「松井右近・女の縁邊」で紹介したが、その人物についてのみ再掲してみよう。

  【松井右近(入江右近)なる人がある。松井を名乗るが代々家老の松井家とは関係ない。
   忠興二男・興秋の生害(元和元年六月六日)にあたり、介錯役を務め行方知れずになった
   とされる。
  「初五郎作 後松井右近と改、但馬国主前野但馬守高麗陳之時取来られしもの也、御息出雲
   守禿童にして御つかひ候しが、秀次公叛逆御一味の由にて前野氏中村式部少輔ニ御預之
   時出雲守殿より異国者ニ而候可愛からせ給へと忠興君へ被仰進候者也」
   と綿考輯録は紹介している。関が原の戦では、忠興の下で「首一つ」の手柄を挙げている。】
   なお、右近の子・松井孫作も三齋の死後八代を離れている。
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島原の陣--決戦の日・・19

2009-01-17 11:11:52 | 歴史
下村伝蔵ハ、三齋君より伊豆守殿へ被附置候而、立允主の御働を遥ニ見請、伊豆守殿江立允乗込申体ニ相見へ御覧被遊候様ニと申候へハ、其方ハ彼乗口ニ参度気色ニ見へ候、三齋老之御前ハ御請合有へく候間、急キ可参旨被仰候間、忝段申候而早速かけ付働候と也

村上吉之允・山田忠三郎・平野太郎四郎ハ兼約に任せ一様に打出先にすゝむ、何も美麗の若者、今日を晴と出立候間、殊にいちしるく見へ、敵弐人平野に突てかゝるを壱人突倒し、壱人ハ逃去る、村上ハ三人突伏る、山田も劣らす働き、共に本丸に着候、村上は立允主日比懇意の者也、例の大鈴の鑓印を鳴し来る故、早くも御聞取候而、村上にてハなきかと被尋、則御前に来り候、扨本丸海手の角と升形との中程二 海手の隅より廿四五間西ノ方 塀の少崩れたるにむしろをかけ置、其下の石垣亦少崩れて高さ三尺五六寸も可有かの所あり、河喜多九大夫是より乗込へきと思ひ、早く着て鑓にてせり合候内、自他の兵士彼是一所に着候へ共、其辺り七八間程は別而矢石はけしく手負多く、各場を明退き候、河喜多も差物・立物・草摺等迄打ひしかれ、鑓に長刀を斬込レ、召連者候三人ハ手負引取候へ共、猶もこらへ若党壱人付居候、其時寺本八左衛門・長谷川仁左衛門・清田又右衛門等組足軽を下知し来て、鉄炮をうたせ候ニ、城内よりも弓・鉄炮・石なと殊之外しけく打掛ケ、仁左衛門立物妙の字の頭を鉄炮ニ而打切、上帯も矢を立、指物絹三度打切、後ハ手拭を竿ニ付置候、如此烈しき場所に候処、山田新九郎も河喜多と同所に来り、平野太郎四郎も山田か右手に着て同く彼破れ口より入へきと志し、諸人ひけ共弐人ハ少もひかす、破れ口より鑓突こみなとして始終こらへ居候、永田十左衛門ハ石にて打落され、樽井左五右衛門も数度石ニうたれ、冑を打破、頂ニ中り絶入いたし候へ共、漸正気ニ成、村上吉之允・山田忠三郎其外追々来り候、
米田か手ニ付たる浪人波々伯部十三郎ハ升形のした磡に着居たる所に矢石に中り、冑の錣鉢付の板より打落され、鉢はかりを載て英貴・是長等かひかへ居たる水の手口に来り候へハ、偖々見事なる振舞といつれも賞美いたし候、大塚甚左衛門 当帰斎子 も此所之塀ニはやく着候処、石手重く負けるを家来開放して引取候、長谷部文左衛門は御楯の支配にて初ハ寺本八左衛門鉄炮側に楯板つかせ居候へ共、八左衛門も御先に被遣候ニ付、文左衛門も同くすゝミ、本丸の石垣ニ上る所を石にて打倒され、前後三度うたれ候へ共、屏の破れより鑓にて突合、松山兵左衛門・神西金右衛門等一所に居候処、御本陳楯板の御用有之由承り、驚き蓮池の上の御本陳に帰り、坂崎内膳・阿部主殿なと加り御楯つかせ候 手ニ付たる御鷹匠よく楯板の奉行仕候 、河井権之允も組の御鷹匠引廻し御楯の奉行よく仕り候
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