一昨年の大河ドラマの主人公・山本勘助については、その存在すら否定された時期があった。多くの史料はないが、今では実在の人物であったとされる。綿孝輯録もその史料の一つに加えてもらいたいと思うのは、次の記述である。(綿考輯録・巻四十六 忠利公・下p58)
「島原の乱--決戦の日・・19」の冒頭に、下村伝蔵なる人の奮戦ぶりか記されている。その事に付いて綿孝輯録は付記として、次のように書いている。
「伝蔵か父ハ下村己安と申候而山本勘助か孫也、勘助河中嶋ニ討死いたし候時、嫡子・二男
共ニ討死、三男ハ幼少ニ有之候しを、家女かくし置、後ニ下村安笑と申候、其子下村己安三
斎君於豊後召出、御知行三百石被下、伝蔵も部屋住の時より百石拝領、八代江も被召連候、
原城後百石御加増、後ニ伝右衛門と改申候、三斎君・立允主も御死去後、丹後守殿ニ相勤、
其後御暇申候而熊本二而致病死、其子孫当時南郷一領壱匹下村伝右衛門也」
「妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳并軽輩末々共ニ」によると、「三斉様御附中津ニ相詰候衆」の中に、「弐百石・下村巳(ママ)安、百石・下村傳蔵」が認められる。肥後入国後の消息としては、肥後讀史総覧に掲載されている「八代分領侍帳 正保二年十二月」に、「下村伝蔵・弐百石」とある。又、細川三齋が亡くなった後の丹羽亀之允による、八代衆の動向を記した文書(正保三年三月十六日付・八代侍衆知行高之覚--丹羽亀之允言上之覚・所収)によると、下村伝蔵については次の様にある。
「弐百石--下村傳蔵 右者松井右近子孫作ニ志うと(舅)ニ而御座候」
ただこれだけの話なのだが、大変興味ふかい話では有る。ご子孫はいまだ南郷(阿蘇)においでなのだろうか。
松井右近については、2008年09月10日のブログ「松井右近・女の縁邊」で紹介したが、その人物についてのみ再掲してみよう。
【松井右近(入江右近)なる人がある。松井を名乗るが代々家老の松井家とは関係ない。
忠興二男・興秋の生害(元和元年六月六日)にあたり、介錯役を務め行方知れずになった
とされる。
「初五郎作 後松井右近と改、但馬国主前野但馬守高麗陳之時取来られしもの也、御息出雲
守禿童にして御つかひ候しが、秀次公叛逆御一味の由にて前野氏中村式部少輔ニ御預之
時出雲守殿より異国者ニ而候可愛からせ給へと忠興君へ被仰進候者也」
と綿考輯録は紹介している。関が原の戦では、忠興の下で「首一つ」の手柄を挙げている。】
なお、右近の子・松井孫作も三齋の死後八代を離れている。
「島原の乱--決戦の日・・19」の冒頭に、下村伝蔵なる人の奮戦ぶりか記されている。その事に付いて綿孝輯録は付記として、次のように書いている。
「伝蔵か父ハ下村己安と申候而山本勘助か孫也、勘助河中嶋ニ討死いたし候時、嫡子・二男
共ニ討死、三男ハ幼少ニ有之候しを、家女かくし置、後ニ下村安笑と申候、其子下村己安三
斎君於豊後召出、御知行三百石被下、伝蔵も部屋住の時より百石拝領、八代江も被召連候、
原城後百石御加増、後ニ伝右衛門と改申候、三斎君・立允主も御死去後、丹後守殿ニ相勤、
其後御暇申候而熊本二而致病死、其子孫当時南郷一領壱匹下村伝右衛門也」
「妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳并軽輩末々共ニ」によると、「三斉様御附中津ニ相詰候衆」の中に、「弐百石・下村巳(ママ)安、百石・下村傳蔵」が認められる。肥後入国後の消息としては、肥後讀史総覧に掲載されている「八代分領侍帳 正保二年十二月」に、「下村伝蔵・弐百石」とある。又、細川三齋が亡くなった後の丹羽亀之允による、八代衆の動向を記した文書(正保三年三月十六日付・八代侍衆知行高之覚--丹羽亀之允言上之覚・所収)によると、下村伝蔵については次の様にある。
「弐百石--下村傳蔵 右者松井右近子孫作ニ志うと(舅)ニ而御座候」
ただこれだけの話なのだが、大変興味ふかい話では有る。ご子孫はいまだ南郷(阿蘇)においでなのだろうか。
松井右近については、2008年09月10日のブログ「松井右近・女の縁邊」で紹介したが、その人物についてのみ再掲してみよう。
【松井右近(入江右近)なる人がある。松井を名乗るが代々家老の松井家とは関係ない。
忠興二男・興秋の生害(元和元年六月六日)にあたり、介錯役を務め行方知れずになった
とされる。
「初五郎作 後松井右近と改、但馬国主前野但馬守高麗陳之時取来られしもの也、御息出雲
守禿童にして御つかひ候しが、秀次公叛逆御一味の由にて前野氏中村式部少輔ニ御預之
時出雲守殿より異国者ニ而候可愛からせ給へと忠興君へ被仰進候者也」
と綿考輯録は紹介している。関が原の戦では、忠興の下で「首一つ」の手柄を挙げている。】
なお、右近の子・松井孫作も三齋の死後八代を離れている。