篠原角左衛門も組卒を下知し犬走に着て働けるか、鉄炮に中り深手負、岡部多門は勘気を蒙り居たるに今度赦免を得て従軍せし故、抜群之働を心懸、石垣下にて敵弐人討取、犬走ニ着て屏を乗むとするに、差物障りと成故、抜取て家来に持せんとて片手を差出しける時、炮玉直中に来て忽死す、其外各すゝミ懸りて死傷多きをも不厭、英貴しきりに下知を加ふ、松井父子も命に応せす一きほひに乗込んと思ひ詰て、益いさむて下知をなす故、士卒犬走に着て左右をかへりミす、忠利君御使度々被遣、屏下に着たる者共いつれも引取候へと御下知有、佐渡には沢村宇右衛門を以被命候へ共不退、重而津川四郎右衛門被遣候へ共返答にも及さる故、永良長兵衛・沢村宇右衛門・津川四郎右衛門等先徒の働く場所に至り、何れも引取候へと台使の命によりて御本陳よりの御下知なるに、佐渡守殿御家来中其意得られすは、佐渡殿御為悪かるへしと頻りに呼ハり候間、松井角兵衛・山本七郎右衛門・生地武右衛門申合、屏下より下り候に生地申候は、白木貞右衛門・佐分利兵大夫両所に言を残し、互に割符を合せ引取へし、左候而も諸手よりの見分如何なれハ、興長公の馬所を目当にして崖をよこきり下むとて其通にして退き候、松井采女ハ新太郎と田原清兵衛に向ひ、御旗本よりの命なれハ各も引取られへしと云、新太郎聞て我等ハ何時もすゝむにハ先魁、退くにハ後殿なりと云ていつれも見合候、其余屏手に着居たる面々互に励て退クへき体も見へさる故、津川ハ立石助兵衛側に至り、のられ候ハゝ其通之儀也、のられましく候ハゝ引おろし可然と云、助兵衛も同心にて内つよく乗事成ましきと申候、石垣に着居たる面々に御意にて候間おり被申候へといへ共、其比田中左兵衛城内にて働く砌なる故、是を知る輩ハ何れも乗入らんと心を励し、又令を守りて下る者もとかくにしたるく、津川も見合せて滞り候、歩御小性池永源大夫も先手引上候へとの御使に先達而参り、続平右衛門・下村五兵衛・竹原少大夫・都甲太兵衛等か着たる所にて申述候処、太兵衛ハ本丸に乗込討死可仕と、先時沢村宇右衛門・朝山斎等ニ申候間、引さる由申ニ付、源大夫も直ニ同所にて働き、面に石手を負申候、其時城内ニ青き衣服之者殊之外働き石を打を、品川六兵衛か持たる鉄炮を太兵衛取て右之賊を打殺候、後藤権右衛門も同しく御使ニ来り候へとも、都甲か申分聞て、同様ニ討死可仕と云てとゝまり候、宮崎宇左衛門 光利君の歩御小姓 ハ半弓にてかせき候か敵数多に射さて候、塩津九右衛門・野脇久之允・上野市左衛門 いつれも歩御小姓 ハ、海手石垣下ニ付居候面々ニ御意候趣申渡候へとも不引取候ニ付、三人も似合の働を心掛、東海手の角塀少シやふり目見へ候ニ着、御あつけ被置候鉄炮にて敵壱両人打たをし候、如此御使の面々各先手に加り、津川・沢村なとも城乗を心掛、佐渡・頼母等一図に乗とらんと励ミ、其志のしたかふましきを忠利君御察し計られ、馬場三郎左衛門殿に被仰候ハ、台使の旨にまかせ人数を引揚へく候へ共、先鋒の者共頻にすゝミ下知にしたかひ不申候、此上ハ直に興長を暁し給ハるへきやと有、馬場氏領掌有て馳着、いさゐに旨趣を演られ候、興長承り、貴命畏り存候、然れ共寄之陳頭にすゝミ、是非に攻入むとしてすへき様無之候と答けれハ、馬場殿又寄之か側に至りて演説有、式部申候ハ、今先手を引取んには後軍さゝへて人数を揚難し、後陳より引候ハゝ、段々に兵を揚候ハんと答へ、佐渡も同意なる故、三郎左衛門殿直ニ有吉か許に至、此旨を示さる、頼母助止事を得す領掌して、立允主にも其意を達し候に、そなたハはや御おり候や、心得候と被仰遣、忠利君よりハ道家七郎右衛門 又清蔵とも有 被遣候間、是非なく命に応せられ候、斯て台使より重而諸手に軍使を馳られ候間、初より命ニ従て兵を揚たるも有、又恥合て見合居たるも追々に引揚候へは、立允主最前詞を交されたる伊豆守殿の御家士壱人残居たるに、台使の御下知たるの旨本陳より数度申越候、軍令そむき難く人数を揚候間、其方も下られ候ハんかと有、彼武者諾する故、越中守手に於てハ一の跡ニ下候と御断被成候へハ、一段御尤なる御届慥に承達仕候と云て引退候間、立允主御人数を揚られ候
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