三齋君京都より被遣置候三浦新右衛門ハ、先時俄に城乗の様子を聞、早速与力を集め、足軽を揃て後れしと駆出、急候へ共、老体肥満して息絶し、立孝主に後れ三の丸の屏を踰見れ共、寄口違ひぬれハ目当るへき様もなし、然るに同手の足軽等数十人銘々の頭に離れ、衆軍に混雑せしを義辰見て、同僚毛利新五左衛門・神足少五郎等は如何と問、与力の士大塚杢左衛門答て我等役場より帰り見候に、本営より直に御打立候や小屋に見へ不申候間、是まてハ尋ね来り候へ共いまた見当り不申と云、扨ハ自身の働を心懸けると察し、よし/\いつれも少も騒かす、我立物黒漆の牛角を目当に従ひ来候へと云て、我組を合せ八十四挺の鉄炮を丸め、壱人も指揮に洩候ハゝ打捨へき旨申渡、二郭に入らんとするに、田渡りの沼渡るに耐さりしを、与力の士嘉悦源左衛門手を曳て二丸に乗入候、左候而自他の兵士充満たるを押分、旗差物の下をくヾりすゝミけるに、蓮池の辺りにて賊徒群て突かゝりけれバ軽卒少シ崩れ候を、与力の士庄林太兵衛鑓を振て、高声に庄林太兵衛を見知たるかと喚てかゝりしかハ、賊一同に逃げ入る、三浦足軽を立直し追手の流尾の下に至り組を汰見るに、何れも無恙相従、小頭五兵衛と小組の内壱人疵を被り候、此所は熊本の人数も多く大軍推合て猶予しける間、義辰流尾の中程より追手口東の尾崎ニ攀上り、人数を段々に繰上、尾筋に足軽を小連に配、賊を打落し候、其時武者三人来り、遖(アッパレ)なる武功何れの手の御鉄炮に候や、承る後証ニ立へし、我等か支証にも成玉ハるへしと云、義辰答て、鉄炮ハ細川立允か隊下にして、某は細川越中守内三浦新右衛門と申者也と云、三人聞て我々ハ松平伊豆守内 壱人ハ失念 笠井市之允・物集女、字ハ御同名なれハ互に忘るまし、慥に見届たる武功伊豆守江申聞すへしと云て相共にすゝミ、矢軍時を移す内に、物集女ハ疵を被候、三浦か与力の士河上助左衛門始終離れす力戦し、渡部権大夫組の小林加右衛門・江川十兵衛、熊谷新太郎組の梅田十太夫等何れも三浦に付て働き候
後に惣軍攻口を甘(クツロ)ける時、三浦も鉄炮を集て立允主の備を尋ね、二の丸の方
へ行に、芦田十郎左衛門・神足少五郎等に逢、其与力の士卒働たる趣をかたりて
引渡、立允主ハ御本陳に御座候間、即尋参り候ニ、御帰の途にて参り逢、初て拝謁
いたし候、其後立允主ハ式部寄之陳所ニ至、一所に御座候間、此時も鉄炮を揃へ相
従ひ候、此日立孝主の鉄炮卅人ハ浜手の番なる故、毛利新五左衛門当番にて相詰、
此鉄炮立允主出馬の時ハ本陳より随ひ来らす、後には 一ニ蓮池の辺よりと有 一ッに加り
候、依之浜手の捨人数云、三浦か隊下に与力の士六騎・軽卒三十人有、其外頭に
離れたる足軽を合て鉄炮八十四挺有しを引回し、壱人も分散せしめす、後に三齋君
御賞美被成候、笠井市之允・庄林太兵衛等か証拠今以伝来せりと也、廿八日にも三
浦・毛利・神足等一所に在て熊本の人数に代り合、鉄炮きひしく打せ候
後に惣軍攻口を甘(クツロ)ける時、三浦も鉄炮を集て立允主の備を尋ね、二の丸の方
へ行に、芦田十郎左衛門・神足少五郎等に逢、其与力の士卒働たる趣をかたりて
引渡、立允主ハ御本陳に御座候間、即尋参り候ニ、御帰の途にて参り逢、初て拝謁
いたし候、其後立允主ハ式部寄之陳所ニ至、一所に御座候間、此時も鉄炮を揃へ相
従ひ候、此日立孝主の鉄炮卅人ハ浜手の番なる故、毛利新五左衛門当番にて相詰、
此鉄炮立允主出馬の時ハ本陳より随ひ来らす、後には 一ニ蓮池の辺よりと有 一ッに加り
候、依之浜手の捨人数云、三浦か隊下に与力の士六騎・軽卒三十人有、其外頭に
離れたる足軽を合て鉄炮八十四挺有しを引回し、壱人も分散せしめす、後に三齋君
御賞美被成候、笠井市之允・庄林太兵衛等か証拠今以伝来せりと也、廿八日にも三
浦・毛利・神足等一所に在て熊本の人数に代り合、鉄炮きひしく打せ候