津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ただひたすら

2009-01-29 17:01:41 | 徒然
「島原の陣--決戦の日」は34回に至った。二月廿七日のたった一日の事が書き綴られているのだが、タイピングしながら暗澹たる気持ちにさせる。他に書きたいものもあるのだが、早く終わりたいという気が先立って、それ処ではないというのが正直なところだ。もう、ただひたすらにやるしかない。

 佐賀藩の山本常朝によって著された(享保元年-1716)、「葉隠」の「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節が頭をよぎった。鉄炮疵を負い、鑓で突かれた身を厭わず、前へ前へと進み屍となっていく。その様を、毎日一字一句追いかけていると、この悲惨な状況が映画の一シーンの様に浮かんでは消える。夢にさえ出てくるようになった。そして、一度原城を訪ねなければならないと、強く思うに至った。いまはただ、一日も早く終わらせたいと思うのみだが・・・それがいつになるのか、予定すら立たないでいる。
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島原の陣--決戦の日・・34

2009-01-29 14:46:52 | 歴史
小笠原備前・同隼人・同采女も以前の攻口を少も不去、日入時分本丸ニ乗込候得共三人共二手を負、働難候ニ付御意を受、無是非陳屋に引取候 廿八日ニハ本丸ニ入て組を下知いたし候 、北西の間より他所の昇三本来り、松崎助右衛門かひかえたる左の方に立候を助右衛門急度見、興長家士遠藤九兵衛に申聞、右の昇をのけさせ候、同近藤庄兵衛敵と鑓を合、松井半右衛門も同前にて詞を交す、下津半助ハ本丸下ニ而足軽を下知する時、鉄炮創を得て甚いたミ候間、少引さかり居けるに、城乗と云に気力を得、難なく乗こみ組を引廻し、松井角兵衛・山本七郎右衛門も一所に在、住江甚兵衛・不破平大夫等同所ニ有、松井新太郎ハ何とそ大将四郎を討捕むと思ひ奥深く働入るに、賊徒大勢ひかへたるか、中ニも逞き男弐人口々に名乗鑓を揃へかゝり来る、正元相懸りに鑓を合せんと思ふ内、側より味方壱人かけ来り彼一賊を突倒し、奥村次郎左衛門定勝 明石源右衛門与 と名乗る、奥村に向ひ今の御挊見事成儀目を驚し候、拙者も花やかに鑓を仕たりと云けれハ、奥村も堵々見事なる御ふりと申内に、脇より山刀長刀二而奥村にかゝり候間、云さして其敵を追ちらし首一ツ討取、新太郎ハ首ハとらす、賊か持たる鑓を取候、北村甚十郎ハ組討ニ敵を仕留、其身も疵を被候、野間権大夫義信も賊徒数十人討捨、鑓をも突折、其身十余ヶ所の創を被り血刀を杖にして居たりしを、沢村宇右衛門大に感し、我等慥に見届たり、疾々本営に帰らるへしと懇に制しけれ共、拙者儀後栄の望も無之、年来の君恩を今日謝し奉るはかりに候条、一歩も退き申間敷候、少心にかゝり候ハ老母壱人残し置候、此寸志の働を御つたへ疲下候ハゝ可忝と云て、又敵中にきり入、終に討死を遂候也

寺本久太郎は奥にすゝみ候に、左脇の小道より敵不図出て寺本か額を石にてうつを、透さす追かけ突伏る、其時江口弥左衛門半弓に持来り後より見事也と云、久太郎も小径に出、江口と共に本道よりすゝまんとするに、先かけの味方賊大勢にて衝立るに、少しらミてたらへかけぬくる道もなく、左の方へ立寄候処、空坑(からほり)に片庇の小屋に至る、此所より見下せは箒塀揚須戸なと有之、前に敵大勢ひかへさし渡に間近くミゆる故、突かゝらんと思へ共、平地にハ間遠く飛事も叶かたきに、下ニハ徒党共鑓先を揃へ居候を、江口弐三人射る矢たね有次第に射候へと寺本申候間、心得候とて矢継早に散々に射る、浮矢なく射立られて足をとめ兼ける折節、味方大勢込入て小屋をも焼上る、賊徒乱れ騒き遂に蹈止の屏の内に入あけ、城戸を鎖し堅く守る、味方続て攻入かたく互に猛火を避て相さゝへ候 此木戸の内に四郎居宅有之候となり 久太郎ハ首二ツ討取候と也

嶋庄右衛門 又左衛門子 ハ本城出丸ニ着居候か、請筒を鉄炮二而打おられ、差物さす事もならす候ニ付、秋月長門守殿の内秋月又左衛門ニ証拠の為とて差物きぬを引さき渡し、扨二三十間程奥ニ参候処、敵一本松の所より壱人出、棒を投付逃候を追掛突倒し候 一ニ首を取 、加々山太郎兵衛 加々山主馬与 ハ石垣下にて石手負候へとも、いとはす、直ニ乗入すゝミ候処、細小路にて敵大勢出合、鑓を合せ候節、立花家小倉九郎兵衛と申者走来、同鑓を合、両人ニ而大勢を突立る、其砌左右の小屋ニ火掛り焼立候ニ付、敵を追捨首一ツ討取候、其外本丸の出丸升形の内にて働面々、槙嶋掃部 頼母与 ・久野次郎右衛門 岩越惣右衛門与 ・中瀬又兵衛 筑紫大膳与 ・山田久之允 藪図書与 ・大竹与三左衛門 松野右京与 ・藪右衛門 藪図書与 ・真野九兵衛 岩越惣右衛門与 ・其子真野左内・可児兵三郎 同人与 ・佐藤安大夫 有吉舎人与 ・蜂須賀弥二兵衛 筑紫大膳与 ・牧権内 岩越惣右衛門与 ・浅山勘三郎 同人与 ・中山左次右衛門 同人与 ・松野次太郎・志賀安之允 真下喜左衛門与 ・大石孫右衛門 同人与 ・杉山久大夫 同人与 ・加藤安大夫 寺本久太郎与 ・伊藤太左衛門 御納戸奉行 等也、此内手負たるも有之候、又生嶋平左衛門 坂崎清左衛門与 ・坂崎勘右衛門 同人与 ・上田忠蔵 平野九郎右衛門与 ・冨田惣兵衛 沢村宇右衛門与 ・宗像吉大夫 有吉舎人与 ・野々村藤大夫 寺本久太郎与 ・村上太左衛門 同人与 ・吉岡瀬兵衛 明石源左衛門与 ・森作兵衛 御納戸奉行 等各首を取、松山兵左衛門 加々山主馬与 ・井上新之允 津田三十郎与 ・井上五紗枝門 同人与 ・弓削五郎兵衛 沢村宇右衛門与 などは首二ツ宛取、原田十次郎 道家左近右衛門与 ・二宮長左衛門 安井太右衛門与 は三ツ宛討取候、斎藤源之允 寺内五兵衛与 は鉄炮二手壱人打倒し、佐藤八郎右衛門鑓を合、一両人突伏せ、弓にて五六人射留申候、早水忠兵衛 御台所方 も半弓二而三人射ふせ候に壱人ハ逃亡候、塩津与三左衛門も弓にて働、忠兵衛ハ太刀働もいたし候
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島原の陣--決戦の日・・33

2009-01-29 11:53:59 | 歴史
本丸に一番昇立つ
御船頭白井兵助もはたく出丸の石垣に着候か、やかて城内に入てかせき候、白井と一同に乗込候御船頭、手嶋茂大夫・佐川庄兵衛・高見善兵衛・渡部七郎左衛門・久間伝蔵・竹田忠左衛門・松田七郎兵衛・岡田茂兵衛・嶋田理右衛門・池部道意・田中作兵衛・山口吉兵衛等也、此内七郎左衛門・理右衛門・作兵衛は手創を被り候、町熊之助ハ乗込時石にて面をうたれ候へとも、猶も不厭相働、篠原清兵衛も乗込、手負なから首一ツ討取候、先に台使の命にて兵を揚よと有時、有吉家士葛西惣右衛門・同伊織・中松伝助・団六左衛門・荻野兵助・本郷縫殿・斎木喜太郎・木部清大夫・生地貞右衛門此者共は最初より先手にすゝミ塀岸に付居たるを、引上候へと、井上左門・中山羽右衛門を以示し遣す処、其比寄之手より乗込へき様子を見請候間、如何と何も見極る内に、本丸ニ火の手見へける故直に乗入り、氏家志摩・斎藤勘助・津田次郎左衛門なと一所に乗込候、古川市助も早ク攻入鑓を合弐人付伏候に、三人めの敵に鑓を切折れ候時、小性弐人かけ付敵を追散し候にまた余敵突かゝる、其鑓のうのくひを取せり合内に、小性壱刀斬れハ市助も抜合せ仕留候、夫より尚もすゝミ候処ニ鉄炮にて膝口をうたれ、小性弐人も手負候へ共、主人を引立退候也、長谷川七兵衛 後久兵衛 ・同兵四郎 後弥兵衛 ・同太郎助 後嶋之助 兄弟三人何も相働、立花手のかゝり口本丸の入隅にて 一ニ須戸口ニ而 七兵衛鑓を合弐人突伏、其身も五ヶ所手負、松野平兵衛ハ敵と相突にして創を被り、浪士奥田藤左衛門一所に在て同敵を突候へとも平兵衛首を取、沢田九右衛門ハ敵三人突留る、沢彦右衛門敵を突伏候に、残党側より不意に出、切付るをはつし候へは、肩に少創を得なから不透其敵を討取る、財津市郎左衛門進て鑓を合せんとする時、敵横相より長刀にて鑓を切折候ニ、其鑓の柄を直ニ投付透間なくつと入て抑へて首をかく、此早業ニ懼れ候や、余賊は奥に逃入候、村上市右衛門・堀田諸兵衛・入江三之允等よく働く、興長家士西垣太右衛門ハ護る所の長旗をすゝめ、本丸の東の海手の隅石垣の壊れ口より諸手一番に旗を入、小高き所に押立候、大村猪右衛門 掃部次男、此時歩御使番、後新知拝領、足軽頭被仰付、改源内 同所に在て賞美いたし候、寄之も無程乗入旗下に来り候へハ、田中三郎左衛門円居をもち来て同く立並ふ、此時風強く乳付の大旗竿ニまかれけるを、沢井善太夫走り寄て引ひらき台使の方に向候間、白地に紺の九曜の下に笹丸付たるか明かに見へ、茜に白き笹の丸の円居も立添候を、御両君・馬場氏も御覧候而、本丸ハ式部乗取たりと御喜悦被成、台使ニも被仰遣候処、はや是よりも見受候と御賞美有之、本丸の一番昇と被定候、沢村大学旗も続て立並へ前後を争ふ程に有之候と也

立石助兵衛・其子市兵衛共に与を下知し、引上候へとの仰を受ても様子見合候内、組足軽添嶋九兵衛城中を見て告る、市兵衛其所より乗込、組の足軽不残集り候を、御両君も御覧被成候

寺尾左助父子も組を下知し乗込、佐々庄左衛門・芳賀五右衛門共ニ与召連、御鉄炮打せ候に、五右衛門ハ先時討死いたし、庄左衛門も本丸入口にて手負候へ共与召連乗込候、湯浅角兵衛も本丸下ニ而石手負、御使ニ付而引揚候処、弐三人塀に乗込候様子を見取てかへし、与の者召連乗入、其後松の木下の賊を打せ候、国友式右衛門・佐藤安右衛門等石垣下ニ而鉄炮うたせ居候か、はやく出丸ニ乗込、足軽を下知し松尾小才次・谷忠兵衛・高田角左衛門・松崎助右衛門・松崎伝助等よく鉄炮うたせ候、伊藤山三郎 沢村宇右衛門与 ・新美八左衛門・庄林隼人 頼母与 なと同所ニ而かせき候、三好権佐御預被成候御郡筒召連乗込、鉄炮うたせ候、中根平兵衛早く石垣に着、御鉄炮うたせ、石垣に乗上り自身も鉄炮を打、手を負候、御使によりて蓮池きわ迄引候処、諸勢乗入候間、平兵衛乗入候、乳市左衛門も乗入て壱所に在り、徒党共数多鑓付候節、平兵衛鑓疵を被る、不破平大夫も乗込、鉄炮打せ働申候、魚住加助 田部(辺)之時の加助の子也 ハ父か拝領の七本はれんの差物にて、弟孫四郎と共ニ乗込相働、兄弟共ニ深手負、家来之内両人討死、五人手負候
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