津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

読んでみるか・・・蘇峰

2010-05-28 17:50:17 | 徒然
 最近徳富蘇峰の『近世日本国民史』を読んでみようかと想ったりしている。大正7年(1918年)に起稿し、昭和27年(1952年)に完結、織田信長の時代から西南戦争まで全100巻にまとめた膨大な史書である。

 私が中学生の時代をすごした学校のすぐ近所に、蘇峰が開いた「大江義塾」跡がある。
       www.city.kumamoto.kumamoto.jp/kyouikuiinnkai/bunka/93_104_o.htm
29年(大水害の翌年)に入学したのだが、戦後のことだから元気な教師がいて、「蘇峰は戦争をあおった戦争犯罪人だ」と広言してはばからなかった。それが刷り込まれてしまっているので、どうもこの人は好きになれない。(蘆花の方がいい)

 『近世日本国民史』を読む分には関係なかろう。どの位の分量があるのかさえ判らないが、チャレンジしてみようかと考えている。
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細川内膳家の家紋

2010-05-28 17:24:21 | 徒然
                      熊本城の軒瓦--桔梗紋(熊本市HPより引用)
細川内膳家とは忠興の嫡男・忠隆の家系をさす。忠隆の孫に当る四代目・忠孝が内膳を名乗り、後代々の当主が内膳を名乗ったことからそう呼ばれている。
昨日土岐(明智)系図についてコメントしたが、ガラシャ夫人の血を間違いなく純粋に受け継いでいるのがこの内膳家である。そして家紋は桔梗紋である。

 忠興は忠隆を廃嫡後二十年程会うことを避けていたが(?)、寛永三年に再会この折に九曜紋を定紋とすることを認めている。「肥陽諸士鑑」はずっと後の時代のものだが、ここには紋は「桔梗紋」が記されている。しかし「明智桔梗」とよばれる桔梗紋ではなく、いかにも桔梗の花を思わせる「陰桔梗紋(?)」である。熊本城の軒瓦も桔梗紋(加藤家紋--旧・尾藤家の紋)だが、内膳家の紋によく似ていて、我々がよく承知している桔梗紋とは少し趣を異にして入る。

 【余談】 忠興は八代城を忠隆に継がせようとしている。しかし忠隆はこれを断っている。徳川家家臣となるべく忠利・光尚に尽力を頼んで進捗していたが、忠隆の死去(正保三年)に伴い頓挫してしまった。遣命により嫡男・忠恒(二代)、二男・忠春(三代)は家臣として仕える事になる。男系でガラシャの血は現在に受け継がれている。
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