津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「細川家の至宝」 熊本展

2010-05-20 22:13:34 | 熊本
 東京国立博物館で開催されている、「細川家の至宝」展が賑っているらしい。九州では2012年九州国立博物館での開催が決まっているが、どうやら地元熊本では来年県立美術館で開催されるらしい。これは熊本日日新聞の「ハイ ! こちら編集局」という投稿欄に、県立美術館が投稿した記事にあった。

        開催期日 2011年3月8日~5月8日 だそうな。

どうやら九州新幹線開通に合せての事らしいが、大変有難い事だ。あと9ヶ月半ほどのことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川家譜--細川韶邦譜 ・・ 16 (了)

2010-05-20 11:04:57 | 細川家譜

外國交際ノ勅問ニ奉對ス伏惟近年説者輙スレハ唱フ開化文明ト又謂フ 四海兄弟一視同仁ト果シテ此言ノ如キトキハ汎濫漫漶二シテ差寄分限ノ正スヘキヲ知ラス 豈外誘ニ惑フノ説ニアラスヤ 然ルニ今聖問内外親疎ノ別アルヲ掲明シ玉ヒ自主獨立ノ國體ヲ立ントスルニ及フ 誠ニ天下蒼生ノ幸福神州ノ元気未タ地ニ墜ス頽日ヲ桑楡ニ回ス良機會ト挊喜雀躍ノ至リナリ 先般来屡愚衷ヲ献セシ如ク永ク獨立國野體裁ヲ保ント欲セハ大本ヲ固クシ大志ヲ立ルニ在リ 本立志定テ後始テ獨立國ノ名ヲ全フシ内外主客ノ分モ正シカルへク盟約ノ信義モ固カルヘシ 此志氣廟堂御確定ノ後群臣諸侯ヲ集メ誓言して謂ン国家ノ準的既ニ定ル 各方嚮ヲ爰ニ定メ上下同轍闔國一致して盡瘁鞠躬始終国家ニ殉スル志ヲ執ヲ以テ務トシテ各此盟誓ヲ永ク服■セヨト此ニ於テ感泣奉命セサル者無カルヘシ 此事終テ後廣ク天下ニ令シ公選ヲ以テ忠信智勇粗備リ國命ヲ辱メサル程ノ人物ヲ擧用シ外国人ニ應説セシム 昔シ冨弼契丹ニ使シ献納ノ字ヲ爭テ頗ル国體ヲ存ス 其後李税金軍ニ使シテ大ニ命ヲ辱シム 是應接其人ノ擇ハサルへカラス一證ナリ 其應接ノ次第ハ是迄ノ條約行ルヘキ條件トヲ酌量シ彼ニ大損ナク我ニ大害ナキ條約ヲ新定シ貿易通信長久ヲ保ン事ヲ談判ス 然ト雖共我々逋負等ノ曲事アリテ意ニ慊ラサレハ彼ニ信義修理徹底セス談判遂ケ難カラン因テ積年ノ逋債今般一切償返スルニ如ク金銀ハ皇國闔邦中匹夫工啇ニ至ルマテ身ニ應シ分ニ應シテ貢献セシムへシ 朝廷御確立ノ御趣意ニ感シ且ツ皇国浮沈ノ所係ナレハ誰カ異辞アラン臣カ領地ノ如キ版籍返上ノ上ハ私ニ處置シ難シト雖共若命令アラハ一藩ノ分ヲ尽シテ貢献スヘシ サテ又版籍返上ノ勅問ニ奉對ス 方今政令一ニ帰シタル上ハ制度名分ヲ正フシ藩主ノ名ヲ廃セラレ知藩事ニ被任トノ儀敬承ス 夫封縣郡縣ノ得失ヲ論セハ古今説者紛紜未タ適當スル所ヲ知ラス 臣愚ヲ以テ考ルニ封縣郡縣ノ果シテ得失アルニ非ス 之ヲ措施スル人如何ニ在ル耳其道ヲ得レハ殷周ノ天下モ數十世ヲ保チ一度人心ヲ失ハゝ秦ノ郡縣モ二世ニシテ滅フ 其後ハ全部縣ヲ用ユルモアリ郡縣中ニ封縣ノ意ヲ寓スルモアリ而シテ天下ヲ保ツ長短汚隆アルモノハ郡封ノ故ニ非ス政治ノ理不理ニアリ窃ニ思フ三百年来君臣上下ノ分定理テ諸侯ハ永ク王臣ノ義ヲ存シテ朝命ヲ奉戴シ藩士ハ常々陪隷ノ名ヲ甘シテ主命ニ奔走シ一旦賦役征伐ノ事興ル上下敢テ違命ナキ所以ナリ 朝廷ヨリ直チニ命ヲ下スヨリモ藩主ノ手ヲ経手令スレハ尊ハ益尊卑ハ益卑ク上下秩然始テ穆々ノ御威光モ相立ヘシ 然レハ則假令知藩事ノ名穪ヲ下し賜ルモ舊来君臣ノ名義ヲ廃セス 藩主陪臣ノ實ハ存シ置ルゝ方良策至計ナラン伏シテ望ラクハ府藩縣一轍ノ政令大綱ヲ立玉ヒ封縣郡縣参錯シテ互ニ相維持スルノ両利ヲ収メ諸道ニ於テ都督府ヲ建置シ在廷ノ大官ニ命シテ都督府トシ接近の一道之ヲ管轄シ朝令ヲ傳布シ下情ヲ通達ス 如此則チ本末軽重偏倚ナク政令齊整シテ政権咸ク朝廷へ御統一ニ相成ヘシ 且又既ニ圖籍返上スル藩々ニ至リテハ政事ノ治否用才ノ得失ヲ検査シ玉ヒ相當ノ御處分被為在度奉冀ナリ 又理財経済ノ道ニ昧シ只二三ノ肯緊ト思フ事ヲ概擧シテ御取捨ノ一端ニ供ス 夫用度豊阜ノ本節倹質素ニ基クハ臣カ贅陳ヲ待サレ共季丗薄俗ノ幣上下華靡奢侈ニ流レ今維新ノ初宜シク痛ク厳禁シ往古純朴ノ風ニ回スヘシ 萬一諸官諸侯華奢ノ行アルトキハ譴責アル可シ若シ弾正臺ヲ置ルゝニ於テハ右臺官監視シテ奢靡勿ラシメ又巡察使を諸國ニ差遣シテ藩主縣令ヲシテ奢靡ナカラシム 如此シテ上下勤倹ノ後財用餘裕アツテ一旦緩急ノ用ニ供ルニ至ラン 第一条悪金銀私鋳ヲ禁し贋金ヲ停止スルノ件謹テ考速ニ厳令ヲ下シ之ヲ犯ス者ハ罰典ニ處スへシ 而シテ不知不識人ノ欺罔ヲ受而悪金贋金ヲ所持スル者官之ヲ奪テ當然ナレ共處ニ之ヲ奪フトキハ下民困苦セン楮幣ヲ以テ替へ與テ可ナラン 第二条内外國債ノ事外国野逋債ハ天下ニ募理一切返済すヘ市内國之債ハ殖財ノ功相立マテハ三五年ノ間利息マテモ止ラレテ可ナラン 皇国は萬國ニ比スレハ封域狭小ニシ而財力モまた不敵外國ト共ニ借貸臝輸ノ利ヲ争フ共永ク接續シ難シ 只物品ノ有無ヲ貿易スルノ便計ニ如カス 第三条歳入歳出ノ事謹テ別紙出入ノ數額ヲ閲スルニ五官ノ入費及ヒ営繕旅用等の経費萬一過當無實ノ冗費モ測リ難シ宜ク弾正臺官ニ命セラレ検査監察セシメ弾糾規正シテ盡ク実ニ適ス可シ将タ正税外餘産ヲ興起シ諸費用ニ充テ猶國用不足アルトキハ不得止諸国より貢賦ヲ命スル外他策ナカラン歟附言風俗ヲ規正シ節倹ヲ誘導スルハ弾正臺ノ任ナリ 最モ任用其人ヲ慎マサル可ラス漢土ニテモ天子ノ意ニ出ス宰相等ノ私選ヲ以テ臺諫監官ヲ擧ルトキハ却テ宰臣ノ意ニ阿リ弊事アツテモ座視シテ敢テ論セス 此トキ朝忽チ紊レ乱亡ニ赴ク 今宜ク此幣ヲ殷鍳トシテ弾正一部ノ官員ヲ命スル 天意ト公選ノ二ツニ出テ議参タリ共典リ知ラサラシ無 然ルトキハ直臣拂士輩出シテ百幣ヲ矯メ節倹ヲ励ス 不日成功ヲ奏スルニ至ラン歟犯分献言シテ裁判赦ヲ乞フ

六月十七日韶邦朝廷ニ召サレ今般版籍奉還ノ義ニ付深ク時勢ヲ察セラレ廣ク公議ヲ採セラレ政令帰一ノ思召ヲ以テ言上ノ通被聞食ノ旨勅諚アリテ更ニ熊本藩知事ノ勅諚ヲ蒙ル 是日官武一途上下協同ノ思召ヲ以テ自今公卿諸侯ノ称廃セラレ改テ華族ト穪スヘキ旨且官位ハ是マテノ通リタルへキ勅命アリ
十九日戊辰ノ春兵ヲ東方ニ出シ各所戦争ヲ遂ケ神妙ニ思召サレ御慰労トシテ金二千両賜ル

韶邦藩知事ノ詔ヲ蒙リ藩政改革速ニ盡力スヘキトノ御趣意ヲ奉シ七月十七日東京ヲ發シ八月四日伊勢神宮ヲ拝シ十三日西京ニ到リ十五日同所ヲ發シ廿四日熊本ニ着ス 此時護美ハ西京ニ在リ 韶邦東京發足前奏シテ護美若シ暇ヲ賜リ共ニ改革ヲ策ラハ成功速ナルヘシ其跡桂御所ノ警衛ハ両末家ノ内上京セシメント乞ケレハ護美モ暇ヲ賜リ八月廿二日京師ヲ發シ廿九日熊本ニ着ス サテ護美発呈前去年東京在職中ノ労ヲ賞セラレ直垂一領鞍鐙ヲ賜春且又末家細川従五位利永上京桂御所御警衛ヲ勤ルノ處同年十一月免セラレ帰邑ス
二十八日北海道根室國ノ内目梨標津ノ二郡支配地トシ開拓スヘシトノ命アリ然處其後護久熊本藩知事在職中命じ四年三月九日管内士民撫育ヲ始メ一新ノ政事晝夜苦慮スル折柄蝦夷隔絶ノ地ヲ管轄スルカ如キハトテモ成功ヲ遂クヘカラス朝廷既二開拓使ヲ置レタル上ハコレニ一致ノ政教ヲ委任セラルゝ方開化ノ功績モ却テ速ナルヘシト乞ヒケレハ十二日許可ヲ賜リ右ノ支配ヲ免セラル

九月八日函館降服ノ徒預ケラレ藩内ニ禁錮し使役等勝手タルへキ旨命アリ其面々ニハ徳川ノ家臣山田八郎・浅田麟之助・井原弘蔵・幕内幡次郎・石寄益之助・田中銀次郎・小宮彦之条・蓮沼清三郎・青木由之助・浅井陽・海老原鍵三郎・杉浦多嘉吉・関弥太郎・守川善之助・小坂三十郎・中村兼太郎・亀谷丑太郎・武川勇次郎・久保常吉・伊久間市之助・土屋文次兵衛・小澤教治以上二十二人伊達ノ家臣小竹銃之助・小田邊其九次・大宮静橘以上三人ナリ 翌明治三年二月九日禁錮免セラルゝノ命アリ三月護送シテ両藩へ引渡ス

十月五日皇后宮東京行啓トシテ西京御出輿依之命ヲ奉シ我銃隊長大塚貞之允一小隊山田三郎八一小隊半隊長平山彦三郎・内藤信之允等各供奉シテ東京ニ赴カシム
【軍艦を献上す】
明治三年庚午三月韶邦兼テ英國へ嘱スル処ノ軍艦製造成就シテ長崎へ入港ス 依テ貢献ノ上表ニ曰海軍御興張ハ廟堂深遠ノ御指畫ト雖共未タ施行ノ場ニモ至リ兼玉ヒ韶邦僭越ヲ顧ス贅言シ奉ル抑我邦ハ大海還瀛ノ心ニ特立シ従前ノ通航海ニ疎ク水戦ニ拙シテ何ヲ恃ミ絶海萬里ノ風浪ヲ破テ神聖ノ御遣業ヲ擴充スル事ヲ得ン 宜ク速ニ公開水戦ヲ訓練シ巨艦大舶堂々トシテ要港ニ羅列シ一旦變起ルニ臨テ緩急機宜ニ應シ施設在ラセラルへシ 夫斯ノ如トキハ経略進取ノ大策得テ施スヘシ
皇威四裔ニ赫燿廟堂遠大ノ御志業モ始テ通暢スヘシ 然ト雖共費用莫大ナリ爭カ大蔵省用度ノミニテ一時御興張ニ至ルへケンヤ必海内ノ全力ヲ以テ資ケサル能ハス仍テコレラ府藩縣ニ分割兵賦ヲ徴シ其用ニ盈テハ數年ヲ出スシテ舩艦全備兵衆訓練スヘシ然レ共年ニ豊凶アリ地ニ肥瘠アリ況ヤ一咋春兵馬倥惚ノ餘昨年凶荒皆無ニ至ルノ地モアリ一ヲ執テ論スヘカラス 斯ノ如キハ宜シク参酌モアルヘシ 當藩ニ於テハ維新後何等ノ功績モナク誠ニ以テ恐悚ノ至ナリ仰願クハ此拙海軍御興張ノ一端ナリ共朝廷ノ御闕乏ヲ補ヒ奉リ将来藩任ノ職ヲ盡シ度志願ニ付今度天覧被仰出處ノ甲鐵艦英人ヨリ受得ノ後ハ上言ノ旨趣ヲ表シ献上奉ラント云々 斯ノ如ク奏シケレハ上表ノ趣御旨趣奉體シ神妙ノ事ニ付聞召届ラルゝノ旨朝命アリ

【韶邦致仕す-後継護久】
韶邦去夏藩知事ノ勅ヲ蒙リ帰藩即下ヨリ朝意ヲ奉シ職別兵制郡務市務座班或官俸ノ等級等多端改革スト雖共更ニ朝旨ノ蘊奥ヲ窺ヒ得サレハ十分ノ實効ヲ奏スル事能ハス頻リニ登京志アリト雖共所労アルヲ以テ果サス 止ヲ得巣委曲護久ニ付托シ名代トシテ四月下旬上京セシム 而シテ韶邦又謂ラク如此維新ノ時ニ膺リ只管疾病ニ罹リ而朝旨徹底ニ至ラサル事アラハ何ヲ以テカ知事ノ職ヲ盡サンヤト乃チ断然一決シ大参事米田虎之助ニ托シテ致仕ノ表ヲ上ル
五月八日護久依召参朝ノ處韶邦致仕願ノ如ク許可ヲ賜リ十三日位階正四位ニ叙セラルゝノ旨特命ヲ蒙ル

十月韶邦病気聊癒ルヲ以上テ今般致仕且位階昇進ノ天恩ヲ拝謝ノタメ十五日熊本ヲ發シ閏十月四日東京到着拾五日参朝其後暫ク滞京ノ内十一月廿五日華族東京住居ノ勅命アリ 依之直ニ濱町邸ニ住居明治四年三月今戸ニ於テ新邸ヲ営ミ六月十三日轉居す
                                  (了)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする