津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家譜--細川韶邦譜 ・・ 8

2010-05-11 12:50:03 | 細川家譜

藤孝--忠興--忠利--光尚--綱利--宣紀--宗孝--重賢--治年--齊茲--齊樹--齊護--韶邦--護久
   細川家譜巻之十
     細川韶邦譜 下


【大政奉還】
慶應三年丁卯十月徳川氏宇内ノ形勢ヲ考察シテ政権ヲ朝廷ニ歸シ廣功天下ノ公議ヲ盡シ聖断ヲ仰キ皇国ヲ保護セン事ヲ奏シケレハ尤ニ思召サレ早々衆議ヲ盡シ給ントテ天下ノ諸侯伯急キ上京スヘキ旨勅諚ヲ下サル 韶邦藩ニ在テ敬承シ議シテ曰ク天下ノ政道幕府ニ御委任ノ中ハ幕令即チ朝令故二幕令ヲ遵奉シテ公武合一ノ筋ヲ盡力スト雖共政権奉還ノ上ハ大政ノ利害得失直ニ朝廷ニ上言シテ復古ノ偉業天下ニ徹底シ萬民安堵セシメ御國躰確立セン事ヲ仰キ奉ルノ外他ナシト相決シ不取敢重臣溝口孤雲ヲ上京セシム 孤雲十一月下旬京師到着ノ處十二月ニ至リ在京列藩ノ内俄ニ戎服ノマゝ参朝シ九門モ戎装ヲ以テ取固メ二條城亦警備厳シク翌十日攝関幕府廃絶等稜々非常ノ大變革仰出サレ就テハ流言紛紜都下騒然タリ 萬一變動ヲ生セハ外國應設モ未他定マラサル折柄神州ノ気運如何成リ行クキヤト憂慮ニ堪ヘス 孤雲十餘藩ノ重役ト談判を遂ケ今般内府ニ於テ御譴責ノ筋モ在セラルへクサレ共幕府追々ノ失體ハ専ラ先代ニ関係し當代ニ至テハ二百五十年来世襲ノ政権断然返上只管ラ聖業ヲ輔ケ奉ルノ誠意ネレハ可也丈ハ御宥恕ヲ加ヘラレ度トノ儀ヲ以テ庭奏両度ニ及ヒ又徳川氏へハ孤雲二城ニ登営閣老大監等列席ノ處ニテ此節内府益恭順セラルト雖共麾下ノ士沸騰制スヘカラサルノ勢ト聞ク 自然聊モ名分ヲ誤ラハ忽人心離乖スル事必セリ 我細川家恩故厚シト雖共大義ヲ廃シ私恩二従フ事ヲ得ス 妄動ノ輩屹ト鎮撫アラン事ヲ希望スルノ旨涯分ヲ盡シ申述へ其後内府大坂へ退城アリテモ不安意ノ擧動聞ユル毎ニ奉行留守居等下坂諫争二及へリ 斯クテ明レハ明治元年正月二日夜會桑等大擧上京ノ注進アリケル由承リ成否ハ天ニ任セ一尅モ早ク人數引戻シノ儀盡力セントテ孤雲は挺身浪花ニ馳下リ外両三輩ハ伏見ニ赴キ種々説得シケル内鳥羽伏見両道ノ戦争相發シ數十日ノ周旋モ遂ニ水ノ漚トナリヌ 先是韶邦疾ニ係リテ召ニ應スル事能ハス乃チ護久ヲ名代トシテ上京セシム 護久十二月十八日熊本ヲ發シ渡海ヲ急キ同廿八日浪花ニ着スト雖共風雨強クシテ輜重ヲ上陸スル事能ハス止ヲ得スシテ坂邸ニ滞留ス 此由徳川氏ニ聞経て登城ヲ促シ来ル 護久辭シテ曰ク舊ニ依ラハ謁見是ヨリ願フ處ナリ今徳川氏ハ大政奉還ノ末子細アリテ此地ニ退城ト承ル 然ルニ護久召二ヨツテ上京ノ途中私ヲ以テ相見ル事獨リ護久カ處置ヲ失府ノミナラス徳川氏ニ於テモ宜キ處ニ非スト答へケレハ其事遂ニ止ミヌ

■慶應三年十一月十五日・坂本龍馬暗殺さる■

【鳥羽伏見の戦・戊辰戦争】
明治元年戊辰正月二日護久浪華ヲ發ス時ニ水陸ノ兵隊陸續トシテ上行ス 其故ヲ問フニ徳川氏召ニヨリ近日上京ナリ多勢ヲ憚リテ先供ノ者今日ヨリ發スト云フ 此夜護久枚方ニ一宿シ翌三日淀驛ニ至ルニ大坂ノ兵隊既ニ市街ニ充満セリ 下鳥羽ニ至ル比ヒ先番ノ者還リ報シテ曰ク上鳥羽邊ハ長薩ノ兵ト見経て大勢ノ出張何故タル事ヲ知ラス 或ハ云フ會桑ノ入京ヲ拒ムと 護久乃チ一介ヲ馳テ朝廷ヨリ召サレ上京ノ由ヲ告テ押通リ午後五時比我壬生邸ニ到着ノ處鳥羽伏見ノ方ニ當リ大小砲ノ響キ烈シク聞フ 未タ幾ナラス伏見鳥羽戦争ノ報告至ル 護久ハ浪花より風氣ヲ冒シ旅行シ是日ニ至リ熱氣尤甚シ然レ共非常ノ變動ナレハ急キ参内シテ天機ヲ伺ヒ奉ルヘシト衣服ヲ革ノ處御所ヨリモ召レタリ 之ニヨツテ夜中疾ヲ勉メテ参内シケレハ早速登京御満足且變動ニ付参朝ノ叚叡感不斜思召ノ旨橋本少将ヨリ傳ヘラレ其マゝ禁闕ヲ守衛シ翌四日退出セリ
五日橋本少将柳原侍従大津口鎮撫トシテ出張従兵ノ命ヲ蒙リ先ツ銃隊長小篠宗平神足十郎助等ヲ始トシテ百餘人随従セシメ其後重士隊長下津縫殿一隊及ヒ銃隊大砲隊等追々ニ増加へリ 橋本柳原両總督十九日大津口ヨリ直ニ東海道先鋒トシテ進發セラレ我兵隊モ其マゝ相従フ 廿二日桑名ニ至ル
城主松平越中 越中ハ慶喜ニ従ヒ罪名ヲ負テ大坂ヨリ関東ニ奔レリ 嫡子萬之助 十三歳 ヲ重臣伴ヒ哀訴シテ軍門ニ降ル 其餘家臣等開城シテ皆寺院ニ退ク 尤其内ニ十三人罪ニ伏セサル者アリ督府ノ命ニ因テ我兵悉ク之ヲ捕縛ス
七日勅諚ニ曰ク徳川慶喜天下ノ形勢不得止ヲ察シ大政返上将軍職辭退相願候付朝議ノ上断然被聞召候處唯大政返上ト申テ己ニテ於朝廷土地人民御保不被遊候而ハ御聖業難被為立候付尾越二藩ヲ以而其實効御訊問被遊候節於慶喜ハ奉畏入候得共麾下并會桑ノ者共承服不仕萬一暴擧可仕哉モ難計候付只管鎮撫盡力仕候旨尾越ヨリ言上候間朝廷ニハ慶喜直ニ恭順ヲ盡シ候様被思召既往ノ罪ハ不被為問寛大ノ御處置可被仰付處豈圖ンヤ大坂城へ引取候ハ素リノ詐謀ニテ去ル三日麾下ノ者ヲ引卒剰へ前二御暇被遣候會桑ヲ先鋒トシ闕下ヲ奉犯候 勢現在彼ヨリ兵端ヲ開候上ハ慶喜反状明白始終奉欺朝廷候叚大逆無道最早於朝廷御宥恕ノ道モ絶果不被為得己追討被仰付候 兵端既相開候上ハ速ニ賊徒御平治萬民塗炭ノ苦ヲ被為救度叡慮候間今般仁和寺宮征討将軍被任候付而ハ是迄偸安怠惰ニ打過或ハ両端ヲ抱キ候者ハ勿論假令賊徒ニ随ヒ譜代臣下ノ者タリ共悔悟奮發國家ノ為盡忠ノ志有之候輩ハ寛大ノ思召ニテ御採用可被為在候 依戦功此行末徳川家ノ儀ニ付嘆願ノ儀モ候得ハ其筋ニヨリ御許容可有之候 然ルニ此御時節ニ至リ不辨大儀賊徒ト謀ヲ通シ或ハ潜居為致候者ハ朝敵同様厳刑ニ可被處候間心得違無之様可致候事 但征討大将軍ヲ置レ候上ハ即時前件号令可被発ハ勿論候得共猶旗下粗暴ノ徒壅遮爰ニ到候事哉ト彼是深重ノ思召ヲ以御遅延ノ處三日ヨリ今七日ニ至リ坂兵日々雖敗走益出兵呉々不被得止断然本文ノ通被仰出候 各藩陪従吏卒ニ至迄方向ヲ定為天下奉公可有之候事御書付護久拝見奉畏叚謹而御請ヲ申上ル
十日橋本ノ闕門守衛スヘキ旨降命隊長隊下共八十餘人直ニ出張同日京地ニ在ル會桑等ノ諸邸官没セラル 各藩ニ命有而■(門構ニ亀)ヲ探ル 我藩ハ千本街ノ桑邸ヲ得タリ銃隊長一人部下ヲ引テ之ヲ改ム空邸ナリ卒ヲ置テ守ラシム

京攝間變動ノ報告正月十一日熊本ニ達ス 韶邦大ニ愕キ即尅大隊長清水數馬ニ命シ部下ヲ率テ十三日熊本ヲ發セシム 其後坂兵頻リニ敗走遂ニ慶喜ヲ初メ總勢城ヲ捨テゝ東歸ノ由相聞 依之九州筋何トナク騒々シク就中豊後ノ内所々浮浪ノ徒嘯聚日田代官モ脱走シ此前後國中ノ警備京師ノ手當等一方ナラサルナリ
十二日護久依召参朝ノ處其藩従前報國ノ志不浅應召登京属官軍候叚叡感不斜候尚此上可勵忠勤旨御褒詞於御前有栖川帥宮傳ヘラル 畢テ護久議定拝命十七日猶又召サレ刑法事務總督命セラル

二月三日主上太政官代二城城へ親臨護久供奉ス先ツ議定所へ出御有栖川帥宮傳ヘラル 勅諚ニ曰苦今度慶喜以下賊徒等江戸城へ遁益暴逆ヲ恣ニシ四海鼎沸萬民塗炭ニ堕ントス 依之御親征仰出サル就テハ御人選ヲ以テ大總督ヲ置ルゝノ間其旨相心得畿内七道大小藩各軍旅用意スヘシ 不日軍議決定ノ上仰出サル御旨趣可有之御沙汰次第早速馳集リ諸軍戮力一同勉勵可盡忠戦トナリ畢テ各退座再ヒ玉座ニ召サレ菓子ヲ賜リ且又庭上ニテ上場叡覧有り 護久モ其一ニ與カル 夕尅ニ至テ還幸

五日久我権大納言大和鎮撫總督トシテ京師ヲ發ス我藩へ守衛ノ命アリ 隊長共百餘人随従セシム
六日護久今般関東御親征東海道先方仰付ラルノ間國力相當人數差出諸事總督ノ指揮ヲ請ケ勉勵セシムヘキ旨命アリ 且其身ハ進軍ニ及ハサル旨ニテ清水數馬ヲ我兵總帥ニ命シ一郡五百有餘人十二日京師ヲ發足セシメ尾州名護屋ニテ橋本少将柳原侍従両總督ニ附属ス 最前出張セル下津縫殿以下ノ人數ハ交代シテ歸ル
 

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明智左馬助の恋 (上) (下)

2010-05-11 07:45:24 | 書籍・読書

 

明智左馬助の恋〈上〉 (文春文庫) 明智左馬助の恋〈下〉 (文春文庫)


著者:加藤廣
出版社:文藝春秋 - 文春文庫
発行年月:2010年05月
価格:(上)630円  (下)600円





【本の内容】

後醍醐天皇から錦旗を賜った祖先を持つ三宅弥平次はその出自を隠すべく、明智家の養子となって左馬助を名乗り、信長方についた主君とともに参謀として頭角を現すようになる。秀吉との出世争い、信長の横暴に耐える光秀を支える忠臣には、胸に秘めたある一途な決意があった。『信長の棺』『秀吉の枷』に続く本能寺三部作完結編。
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