津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家譜--細川護久譜 ・・ 1

2010-05-21 17:37:38 | 細川家譜

藤孝--忠興--忠利--光尚--綱利--宣紀--宗孝--重賢--治年--齊茲--齊樹--齊護--韶邦--護久・・護成・・護立・・護貞・・護熙・・護光

     細川護久譜

従四位源護久ハ越中趣齊護カ三男ナリ 幼名義之助後澄之助ト改メ護久ト名乗ル 兄韶邦五男ヲ生ム皆夭す 故ニ慶應二年八月護久ヲ養テ嗣トス 同三年八月従四位下侍従ニ叙任セラレテ右京大夫喜廷ト改ム 明治元年二月又護久ニ復ス
明治三年庚午四月韶邦名代トシテ出京ニ十七日内殿ニ召サル 此日ハ主上吹上ニ臨御輔相初諸官員拝列護久モ其席ニ召サレ酒宴賜リ特ニ天酌ヲ忝フス 畢テ護久ニ調馬命セラレテ叡覧アリ其後五月八日依召参朝ノ處韶邦致仕願ノ如ク護久家督且熊本藩知事ノ命ヲ蒙ル 是ヨリ先キ護久文政三年九月弟護美ト共ニ上京専レ公武御一和大政御興張ノ事ヲ盡力翌元治元年四月化歸國慶應三年五月出京天幕ノ命ヲ奉シ勉勵ノ處眼疾ヲ發シ同年七月帰國明治元年正月出京此日ヨリ鳥羽伏見戦争起ル其末関東御征伐大阪行幸且護久議定職拝命稜々勤上同年閏四月帰國同二年二月上京参與職ニ任セラレ東京再幸御留守警衛ノ命ヲ蒙リ其後脚気病ヲ發シ願ニ依テ國元温泉入浴百日ノ休暇ヲ賜リ四月帰國ス此等ノ事件ヲ初凡護久部室住中ノ履歴詳ナルハ韶邦譜中ニアリ
五月護久今度知事ノ職ヲ蒙リタル上ハ一剋モ任國ニ赴キ改革ノ成功ヲ奏セント乞フ 即日許可ヲ賜リテ拾五日参朝天顔拝謁殊ニ藩政一新皇国ヲ興隆セヨトノ綸言ヲ蒙リ天盃ヲ賜リテ厚ク慰労シ玉フ 十六日東京ヲ發シテに十八日熊本到着直チニ父韶邦ニ見ヘテ天恩ノ辱キ次第具ニ陳説シ韶邦モ畏リテ太祝ニ堪ヘス 此上ハ一日モ早ク我平素ノ志ヲ継テ朝命欽奉断然藩政改革ニ取懸リ一新ノ實効ヲ奏スヘキヨシヲ諭ス 於是先改革順序ノ■略ヲ定ム

六月朔日三日両日ニ従四位長岡護美大賛辞降命ヲ初此外大小参事黙陟ノ命ヲ傳フ 是藩廰上院の役員具ル改革ニ手ヲ下スノ初ナリ
十一日十三日両日藩士等ヲ城中ニ呼日集メ申諭シテ曰今度致仕家督知事拝命綸言聖旨ノ件々斯ノ如ク朝命ヲ辱フスル上ハ父ノ忠志ヲ継述シテ一身ヲ■チ御趣意ヲ上下ニ貫徹セシメント欲ス 然ルニ一藩ノ士民孰カ王臣ニアラサル孰カ王命ニ背ン蓋卑下賎愚ノ徒深遠ノ朝旨ヲ窺ヒ知ラスシテ或ハ巷説ニ惑火或ハ私見ニ泥ミ方向ヲ誤ルモノ不少是全ク本心ニアラス皆見聞ノ愆リナリ 依之既往ノ事ハ悉ク我等父子ノ不届故ト自反シ以往更始一新凡百ノ事天意ヲ奉シ順序ヲ以テ改正スヘシ サレハ有職無職ノ別ナク一般ニ朝旨遵奉有職ノ徒ハ専ラ其職ヲ勉勵して事業ヲ起シ無職ノ徒ハ専ラ孝悌文武ニ身ヲ委子テ風俗ヲ維持シ一人モ皇国ニ忠ヲ盡サゝル者無ク一人モ王化ニ服セサル者ナク聖王ノ大道一藩ニ確立セン事ヲ注意スヘシ 此旨更ニ告諭ス就テハ反復熟慮シ若シ解セサル者ハ懇諭ニ及ヒ猶解セサル者ハ是乃チ王化ニ服セサル者ナリ 王化ニ服セサル者ハ此藩ニ在ルヘカラス 闔藩ノ士民奮起勉力忠誠を抽ツヘシ
六月十六日以来追々令ヲ下シテ公私ノ名分ヲ正ス 奉行所ハ 城中ニアリ 一藩正令ノ出ル所ナレハ以後熊本藩廰ト改メ称シテ玄関には菊桐ノ幕挑灯ヲ用ヒ知事私邸ヨリ登廰ノ節ハ城門外ニテ下乗一条 宣下ノ役員ハ廰中都テ別席藩士ノ座班ハ追テ改革スヘシ士族卒共に朝臣ノ心得勿論ナリ一条 年頭五節句ノ出仕ハ朝廷へノ御祝儀ト心得ヘシ一条 精勤ノ面々へ紋服ヲ與へシハ廃止一条 屋形前下乗ニ不及一条 知事親類等ノ凶事一藩鳴物停止ハ廃ス一条 鷹場建川等廃止ス一条 此類悉クハ記サス
六月十七日以来追々ニ國境ノ警備ヲ解ク鶴崎八代佐敷ノ三ヶ所主事或ハ晩頭初多分ノ役人廃止 且四方ノ津口番所等數十ヶ所廃止 上番下番トモ多人數免職自他ノ出入勝手次第タルへキ旨ヲ令ス
六月廿九日以来廃局廃職等左ノ如シ 重士大隊長初大砲隊長小銃隊長其外軍事主事廃止合テ十人免職 駕役茶道廃止合テ八人免職 郡宰十六人郡監二人其附属二百十五人共ニ免職 次テ軍政大属正権九人・郡政権少属三十八人新ニ設ク 工作司廃止司長以下百五十餘人免職 供頭使番廃止附属共二百餘人免職 武庫司廃止司長以下百十人免職 練兵場役々小吏共百二十餘人免職 學校改正助教訓導初師員及ヒ附属小吏共九十餘人免職 外ニ漢學洋學兵學ノ諸生百六十餘人居寮ヲ許ス 槍術居合長刀射術棒野太刀師範廃止合テ十三人免職 醫學館改正醫學提擧以下十餘人免職 修築司廃止司長以下二百餘人免職 厩牧司廃止馭以下三百餘人免職 犬追物廃止師範以下十餘人免職 鞠獄司改正司長以下十三人免職 次テ鞠獄大属一人・正権少属十一人更ニ設ク 所々横目上聞一人横目二十二人は位師 吟味役人八人勝手奉横目十二人精等司録事以下五人廃職 雑税司録事以下十一人免帳調役五人廃職監察附属共十餘人廃職
新政ノ初ヨリ藩廰ノ局々及ヒ役員ヲ改正ス 従来藩廰ニ辨務局・學校局・神事局・待客局・當務局・郡政局・市務局・僧籙局・邸宅局・會計局・工作修築局・軍備局・刑法局ノ十三局アリ 然ルニ辨務局ヲ庶務局ト改テ學校・神事・待客・當務四局ノ事務ヲ合併シ郡政局ヲ民政局ト改テ市務・僧籙・邸宅ヲ合併シ會計局ハ元廰外ニアリタルヲ廰内ニ引直シ工作修築局ノ事務ヲ合併シテ遂ニ庶務・民政・會計・軍備・刑法ノ五局トス 是ヨリ先キ會計局に會計主計ノ職アリ 辨務局ニ辨務長官及次官ノ職アリ三職共追々ニ廃止シテ五局新ニ大属一員又二員ヲ置キ録事書記ヲ某ノ少属某ノ史生ト改メ七月十八日従前ノ私邸を藩廰ト定メ知事参事ノ詰所ヨリ五局末々ニ至ルマテ僅ニ閾ヲ隔ルノミ一視ニ座列シテ百事下ヨリ決ヲ取ルモ上ヨリ旨ヲ令スルモ立処ニ辨シテ留滞ナカラシム 於是今マテノ吏員ヲ大ニ減シテ十分ノ一二トナシ且五局二示テ曰今度改革ニ就而は舊来ノ例格等に不拘専ラ朝廷ノ御趣意ニ基徽萬事簡易無造作ヲ主トシ一新之際目確然タラン事ヲ要ス 故ニ追々冗官ヲ廃シ人員ヲ減シヌレハ益繁劇當然ト雖共此砌銘々一層奮發涯分ヲ盡シ闕漏コレナキヤウ各職一致ニ勉勵スヘシ 
七月三日藩士座班陪士ノ身分ヲ改正ス其略ニ曰一門名號及ヒ一等ヨリ九等マテノ等級ヲ發シ士族卒ノ二等ニ定メ且一門以下家中ノ陪臣モ目安ヲ立テ以テ本藩ノ士族卒ニ編入シ往々ハ人柄次第役員且兵隊ニモ抜擢スヘシ サテ又皇政一新天下ノ生霊均シク王民タル上ハ卒平民ヨリ士族ニ對シ無禮ノ事有リテモ討捨ハ難叶然レ共尊卑ノ別ハ自カラコレアル事故卒己下ヨリハ愈以禮譲ヲ守ルヘキ旨布令ス 此後又令ヲ下テ曰無役士族ニ等位コレナキ旨朝廷ヨリ仰出サレアリ依之集會等ノ節羽族籍ノ新舊年齢ノ長幼ニ因而交接其宜ニ適ヒ禮譲ヲ失ハサルヤウ注意スヘシ
七月九日家督相續文武修行ノ事ヲ改正ス 其略ニ曰新禄ノ 慶安前後ヲ以テ新舊ノ禄ヲ定メ世襲世減ノ制ヲ立ル事ハ重賢譜中ニ詳ナリ 跡目ハ宝暦以来其嗣子藝術の科目ヲ以テ引継ノ定メナリシカ■(氵ニ公)襲ノ久キ其幣ナキ事能ハス一身ヲ以テ徒ニ科目ヲ貪リ實致ノ材藝成就ノ場ニ至リ兼且旧禄ノ内ニハ問ニ無能無藝ト申ス程ノ者モコレアルヤウニ成行况ヤ即今藩政乃チ朝政トナリタル上ハ科目ノ規則ハ断然廃止文武何レニテモ實致ニ進ミタル面々ハ相傳ノ多少ニ拘ラス相續セシメ若又平素心懸薄キモノハ舊禄タリ共減スヘシ一條 文武ノ藝を嗜ムハ士族ノ當前ニテ誘掖勧奨ヲ相待へキ二アラスサレ共従前一際人心ヲ激励シ士風ヲ鼓舞スル為メ賞典ヲモ設ケ置ト雖共日ヲ遂ヒ年ヲ積リ今日ニ至リテハ毎年ノ常例トモ申スヘキ程ニテ格別補ヒニナラサル故以後右ノ賞典ハ廃止ス二條 以前ヨリ諸藝ノ師範ヲ立置キ専ラ教導ノ處時勢變轉ニ随テ兵制軍器モ革リタレハ諸藝モ右ニ應シ損益ナキ事能ハス 之ニ依テ武藝ハ剣術柔術泅術文藝ハ■(算カ)術音楽五藝ノ支藩マテ残シ 此五藝モ次テ廃ス 其餘ノ師範ハスへテ廃止三條 右ノ次第ナレハ銘々深ク勘考ヲ凝シ此後ハ各生質長スル所ノ藝術ニ身ヲ委子専ラ實用ヲ志シ徳器成就他日屹ト御用ニ相立ヤウ奮發砥励スヘシ四條

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加藤家の「折墨紋」

2010-05-21 12:17:10 | 歴史
 肥後加藤家の家紋は三つあるといわれる。蛇の目紋・桔梗紋の他に「折墨紋」という紋があり、それぞれ使途が分けられていたとされる。(このことについては、いろんなサイトがコメントしているので省略する)この「折墨紋」というのが良く分らない。

 「岐阜県文化財図録 検索」に「加藤光正遺品膳部付 蒔絵五段重」というものがある。

    pref.gifu.lg.jp/BUNKA/GPR017_001V04?ZAI_NO1=1&ZAI_NO2=332&ZAI_NO3=1

 ここには次のようなコメントが添えられている。
【本品は加藤清正の所持品で孫光正誕生の折つかわしたもので、光正が飛騨に配流の際に持参したものである。五段重の模様には葡萄模様の蒔絵を施し、桔梗紋、桐紋、折墨紋が使用されている。桔梗は加藤家、桐は豊臣家、折墨は清正のみ使用の紋章である。清正所用の脇差にも三種の紋所が施されている。】
よくよく見ると墨が斜めに折れた文様が窺える。詳細なものを見てみたいと思っているが、清正の廟所がある本妙寺の宝物殿にでも出かければ拝見できるかもしれない。

 どなたかこの「折墨紋」についてご存じないだろうか・・・(写真でも提供いただければ幸いです)

 先日訪ねた安國寺には加藤忠広夫人崇法院(光正生母)が、父・蒲生秀行を偲んで建立した立派な供養塔がある。また往生院には同様の大きさの母・振姫の供養塔がある。加藤家没落の原因となった光正の行動はなんとも歯がゆい思いがする。信長・家康・清正・蒲生などの血を引く人だけに思いは一層深くなる。


      蒲生氏郷
          ∥----秀行
  信長-----冬姫     ∥
                ∥----崇法院
                ∥      ∥
      徳川家康----振姫      ∥-------光正
                        ∥
      加藤清正-------------忠廣
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桔梗紋

2010-05-21 10:51:02 | 徒然
 熊本城の軒瓦には、加藤家の桔梗紋、細川家の九曜紋そして火除けとして知られる巴紋の三種が使われている。桔梗紋は明智の家紋とし有名だが、忠利が熊本入城したときこの軒瓦の桔梗紋をみて母・ガラシャの事等想いを馳せたかもしれない。

 加藤家の家紋は「蛇の目紋」がよく知られているが、桔梗紋についてはいわく因縁がある。5,500石の侍大将であった加藤清正は、天正16年大抜擢を受けて肥後熊本半国の領主となる。清正は先年改易した讃岐の尾藤家の旧家臣300人程を家臣としたが、秀吉はその尾藤家の武具や調度などを清正にあたえたという。桔梗紋は尾藤家の家紋でありこれがそのまま加藤家に受け継がれたのである。

 蛇の目紋の軒瓦は見受けないのだが、熊本市教育委員会の「石垣保存・発掘調査報告書」(1999/3)等を見てもこれを見ることは出来ない。刻印として直経15㎜ほどの数種の蛇の目紋が確認できるだけである。何故だろうと素朴な疑問が残る。

 実は史談会の会員T氏のお宅の庭から、多量の瓦が破砕された形で掘り出された。T氏が半年ほどこつこつと作業をされてきたが、一つ一つ水洗いをされ托本をとるという気長な活動を続けておられる。瓦の研究家や文化財関係者がたずねられる、貴重な活動である。


 蛇足だが秀吉に殺された尾藤知宜(讃岐180,000石)の二男知則は寛永十二年忠利に仕え、同十五年の嶋原城攻めの時に壮絶な討死をしている。子孫二流が明治にいたった。「武家家伝」をみると、尾藤氏の家紋は桔梗紋ではなく「違い斧」とされる。細川家家臣尾藤家もまた「違い斧」を家紋とされている。
コメント (1)
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