津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

夏も近づく・・・昨今

2010-05-04 11:56:45 | 徒然
 昨日の熊本は28度近くまで気温が上がり、余りの暑さに倒れそうに成りました。(花の苗を買おうと小一時間ウロウロしました) 二日が八十八夜、五日(殆んど六日)が立夏・・いよいよ夏ですねー。
今日は現在27度、予想では29度だそうです。タマラン・・

 細川家譜に取り掛かってから(3/9スタート)あと数日で二ヶ月、飛ばしに飛ばして八割かたを完了、今タイピング中の韶邦公は結構量があるので途中で休憩が必要のようです。

 史談会は今月は例会の他に、「名刹探訪」として泰平山・安国寺をお訪ねする事に成りました。
開祖は明智光秀の男と言われる明巌梵徹ですが、ここには三宅家(明智左馬助流)から伝えられた「明智氏系図」が残されており、どうやら拝見できそうでワクワクしています。
このお寺は元々は弘真寺というお寺でしたが、加藤家の改易により廃寺となり、細川家の入国に伴い梵徹が大般若経660巻をたずさえて入りました。
加藤忠広の室・崇法院は蒲生秀行女(徳川秀忠養女)で有った為、秀行のお墓があり甲冑に身をかため埋葬されているという(?)話もあり、そんなお話しを伺えそうです。細川家墓所(現・北岡自然公園)も目と鼻の先であり、久しぶりに訪ねようかと考えています。

 そんなこんなで「図書館浴」もちょっとご無沙汰・・そろそろ再開といった処です。

 読みたい本が何冊もあるのですが、現在は「俳句歳時記-夏の部」と毎日にらめっこです。

 そして昨秋東京のTY様からお贈りいただいた沢瀉(おもだか)の球根が、見事に芽を出し、一本はあの特徴有る葉の形を見せてすくすく育っています。その内に写真でご紹介します。


コメント (4)
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細川家譜--細川韶邦譜 ・・ 1

2010-05-04 08:39:55 | 細川家譜

藤孝--忠興--忠利--光尚--綱利--宣紀--宗孝--重賢--治年--齊茲--齊樹--齊護--韶邦--護久
   細川家譜巻之九
     細川韶邦譜 上



正四位源韶邦ハ越中守齊護カ二男也 幼字訓三郎後六之助ト改メ護順ト名乗ル 嫡男慶前卒ス故ニ護順ヲ嗣トス 嘉永四年九月十八日従四位下ニ叙シ侍従ニ任シ右京大夫慶前ト穪ス 明治元年韶邦ト改ム

萬延元年庚申父齊護疾ヲ以テ致仕セント請フ 幕府強テ之ヲ留ム故ニ滞府シテ病ヲ養ヒ韶邦ヲシテ代テ下國セシム 韶邦四月廿に知熊本ニ至ル 此月齊護疾劇シ韶邦其報告ヲ聞テ直ニ熊本ヲ發シ六月二日尾州熱田驛ニ於テ訃音ヲ聞十四日江戸ニ至ル 七月十二日遺領相續且相模國備場預所ノ命ヲ承ケ廿八日越中守ト改ム 八月廿一日左近衛権少将ニ任ス

文久二年壬戌七月廿二日朝廷ヨリ蛮夷渡来以後皇国ノ壬申不和ヲ生シ容易ナラサル形勢ニ至リ深ク宸襟ヲ悩マサル依之皇国ノ為ハ勿論公武永久ノ計ヲ定ムヘキ旨関東ニ勅セラレ其旨大樹ニ於テ既ニ奉命因テ叡慮ノ通速ニ行ハン事ヲ薩州長州専ラ周旋す 韶邦ニモ同ク國家ノ為丹誠ヲ抽テ周旋アラン事ヲ依頼シ給フ旨一條左府忠香ヨリ傳達アリ是ニ依テ奉命ノ旨先ツ使者ヲ忠香ニ呈シ就而周旋ノ目ヲ請ヒケルニ薩長ト同ク上京ニハ及ハス國元ニ在テ周旋シ萬事施設有テ然ルヘキ旨傳ヘラル
九月廿八日最前上京ニ及ハサル旨命スト雖共方今ノ事體早々状況シ朝廷ヲ輔翼斡旋スヘキ旨更ニ密約を賜リ猶又十月十三日今般勅使ヲ以テ攘夷ノ事関東ニ命セリ 就而は蛮夷ニ洩聞モ測リ難ケレハ帝都不慮ノ守備同ク関東ニ勅セラレタリ韶邦ニモ上京朝廷ヲ輔翼スヘキ旨密約ヲ賜リ續テ十四日攘夷ノ事累年叡念絶サセラレス方今人民モ同ク翼望セリ 攘夷決定ナクテハ人心一致ニ至リ難ク且方今ノ勢ニテハ往々邦内混乱ニ至ランと深ク叡慮ヲ悩マサル故幕府ニ於テハ彌攘夷ニ決定シ速ニ諸侯ニ布告シ且策略ノ次第拒絶ノ起源等衆議ヲ遂ケ奏聞スヘキ旨既ニ勅ヲ関東ニ降セリ宜ク此旨ヲ奉體シ叡念徹底ノ周旋スヘキ旨又々密勅アリ 於是韶邦先ツ弟長岡護美ヲシテ上京セシム 護美十二月五日京師ニ至リ参朝再應ノ大命ヲ拝スルノ處暫ク滞京警備スヘキ旨勅諚アリ 十ニ日朝廷諸藩ノ重臣ヲ學習院ニ召サレ傳奏議奏ヲ以テ近比蛮夷渡来ノ風聞頻ナリ 攘夷一決ノ上ハ彌守衛行届キ帝都不慮ノ患ナキ事ヲ得ヘキヤノ宸問アリ 且又萬一小舩ヲ以テ淀河ニ泝ラハ防禦ノ箇所手配等書附ヲ以テ言上スヘキ旨策問セラル 廿一日護美献策シテ曰ク安治川木津川ノ各口ハ別段厳重ノ砲臺等備置カレ兵庫堺ハ本舩停泊ノ處ナルヲ以テ大砲ノ手當アラセラレ然ルヘシ 大坂城并ニ同所聨絡ノ諸藩邸實兵何程ノ完備ナルヤ外夷若シ川ヲ泝ラハ挟撃或ハ舩筏ヲ以テ取切ノ方便ハ何レニモ之アルヘシ 然レ共両岸皆上陸便利ノ地ナレハ處々ノ持場ニテ上陸ヲ支ル事頗ル難カルヘシ 八幡山崎ノ切所ハ水陸ヲ束子攻守必争ノ地ト雖共殊ニ堅固ノ窄■(阝ニ益)ニモ非ス 此處別段防備有ラン事ヲス 右等ノ事一刻モ早ク受場ノ各営ニ実検ノ調ヲ命セラレ萬一完備ニ至ラサル所アラハ急ニ堅固ノ守備有ルヘキ事今日ノ急務也 又王城ノ堅メハ幕府第一ノ職任ナル故急ニ関東ニ命セラレ其職司迅速ニ上京シ兼テ此區畫ヲ踏へ持場ノ向向厳ニ戒飾有テ右ノ目計相立タル上猶格別ノ大策モ之有ルヘシ 山城攝津ノ形勢ヲ考ルニ若襲来ノ賊有テ舩艦内海ニ入リ大坂兵庫殷富稠密ノ地等觸冒セハ我等必ス窮セン 故ニ紀州ノ出崎明石ノ浦等ニ於テ然ルヘキ切所ヲ見立京畿外門ノ固トシテ海軍等備置カレ大坂二條ノ両城ニハ重役重兵ヲ籠置カルヘシ 且方今外夷ノ形勢ヲ聞察スルニ若襲来ニ及ハゝ宋國澶淵ノ契丹我朝弘安ノ蒙古一征一戦ニテ事止ムヘキモノ二異リ一度寇ヲ結ハゝ五年十年ニテハ済へカラス サレハ列藩ノ地形ニ應シ道程遠近労逸ノ程ヲ計リ外海岸ヲ防キ内京畿ヲ守リ持場々々ヲ定メラレ皇国一躰トナリ永久ノ備立チ國力疲弊セサルノ長策無カルへカラサルナリ

十二月廿三日韶邦熊本ヲ發シ翌(文久)三年正月十七日京師ニ至リ二月九日参内天顔ヲ拝シ天盃ヲ頂戴ス 先是頻リニ朝廷ヨリ将軍上洛ノ勅命アリ故二将軍上洛ノ上羽公武合躰断然攘夷アルヘキ趣ナレハ我領分海岸廣袤防禦ノ儆備最至急ノ時ナルヲ以テ護美ハ韶邦ニ代リテ下國セン事ヲ請ヒ廿四日京師ヲ發シ三月十二日熊本ニ着ス

文久三年癸亥二月廿九日横濱港へ英吉利軍艦渡来シ三ケ条ノ事件申立何レモ聞届ケ難キ筋ニ付其赴ヲ以テ應接ニ及フ 就テハ速ニ争端ヲ開キ何時攝海へ軍艦差向ンモ計リ難シ 因テ京地ノ守備厳重行届キ叡慮ヲ安シ奉ルヘキ旨幕命アリ ■日英夷軍艦渡来容易ナラサル形勢ニ付自國防禦ノ備モアルへケレ共護美既ニ歸國シヌレハ韶邦猶京師ニ滞在スヘキ旨朝命アリ
三月四日将軍家茂上洛十一日攘夷祈願ノ為加茂上下社行幸アリ将軍及ヒ在京ノ諸矦皆供奉ス 韶邦先駆ヲ勤ム
是月御所守衛トシテ藩士小坂大八列五十四人ヲ獻ス親兵ト穪セラル 先是十萬石以上ニ一人充ノ規則ヲ以テ強壮勇幹ノ士ヲ撰ミ貢獻スヘキ旨朝令アリ
将軍上洛後纔カ一旬ノ滞在ニテ外國ノ處置容易ナラサル時節ト云ヲ以テ東歸ヲ請ヒ既ニ發馬ノ期ヲ定メラル鷹司関白ヨリ韶邦ニ命ヲ傳へテ将軍姑ク滞京アラン事ヲ周旋セシム 韶邦直ニ二條城ニ赴キ種々周旋シケレハ發馬ノ事相止ム 其後時世切迫ナルヲ以テ深ク聖意ヲ労セラレ猶将軍滞在ヲ命セラレ在京ノ諸矦ニモ周旋ノ内勅ヲ降サル 其後三月廿八日韶邦朝廷ニ建言シテ曰ク今度将軍職ヲ委任シ牧伯ノ指揮モ更ニ命セラレタル上ハ公武合躰ノ誠意始終貫通切々参内セシメ實意ノ委任ニテ大小ノ政事皆将軍ニ沙汰セラレ将軍乃チ勅ヲ奉シテ天下ニ指揮セハ紀綱卓立人民仰感シ忽チ興隆ノ大業成ルヘシ若又委任ハ只名ノミニシテ朝廷ヨリ屢諸藩に降命アラハ是則政令二致ニナリテ上ハ朝廷ノ威厳ヲ損セラレ中は将軍ノ指揮行ハレス下ハ人心ノ疑惑を生シ将軍如何ニ滞在スル共其詮無ルヘシ 然ラハ則前日眷顧ノ聖旨モ一時ノ虚飾ニ歸シ滞在無キ二如サル也 且又攘夷ハ神州ノ安危ニ関係シ一度遺算アルトキハ則生民ノ塗炭國家ノ災害眼前ニ至ルヘシ 依テ人々尊王ノ精神徹底シ士氣振ヒ國力充チ各國全州ノ守備一般ニ歸スルヲ以テ萬全ノ勝算トス 又征夷ハ将軍ノ職掌ナレハ應接等皆将軍ニ任セラレ一時ノ強弱ヲ計較セス始終ノ成功ヲ責メラレン事ヲ要ス 又幕府ニ建言シテ曰ク叡慮ヲ以テ屡東歸ヲ止ラレ深ク眷顧シ玉フ上ハ臨ラクハ今一掃尊崇ノ實意ヲ重子切々参内天顔に咫尺シ凡百ノ政事直ニ相伺ハレ君臣ノ間一毫ノ間隙ナク又聖躬ノ奉資モ猶改メテ増獻セラレン事ヲ冀フナリ 今度将軍職従前ノ如ク委任牧伯守衛萬端指揮セラルへキトノ勅諚ナレハ神州ノ威武ヲ張リ夷狄ノ侮リヲ受ケス生民塗炭ニ陥ラスシテ精令相立士氣振ヒ國力充チ各國全州一般ニ歸スルヲ以テ今日ノ急務トス 因テ向後天下ノ事是非曲直利害得失篤ト上達シ叡慮ヲ伺ヒ取ラレ公平正大ノ政道速ニ施行コレ有度ト云々 此後将軍モ六月八日マテ滞京九日大坂ヨリ蒸氣艦ニテ東歸アリ

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