津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

坂本龍馬の「贋金」製造計画 明治維新を突き動かした

2010-05-07 21:05:08 | 書籍・読書



坂本龍馬の「贋金」製造計画 (青春新書INTELLIGENCE)
出版社:青春出版社【青春新書】
著者:竹下倫一
価格: 870円 (税込)


【内容】
公式文献が示す、坂本龍馬による「ニセ金」製造計画! 尊王攘夷、倒幕など理念ばかりが先行する志士たちの中にあって、唯一、“経済に強い”志士である坂本龍馬の真骨頂ともいえる、知られざるエピソードを大公開。大河ドラマ人気もあって、史実から離れた龍馬像が一人歩きするなか、「悪の魅力」も含めた、聖人君子ではない人間・龍馬の本当の魅力を伝える一冊。
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細川家譜--細川韶邦譜 ・・ 4

2010-05-07 09:59:45 | 細川家譜

(元和元年)五月十五日将軍大阪發艦東歸アリ

【四国連合艦隊下関を砲撃】
六月英ノ軍艦長州ニ来テ去夏砲撃セラレシ措置ヲ問フ 先是英佛墨蘭等屢長州ノ事ヲ幕府ニ訴フ幕府如何トモスル事能ハス於是彼策ヲ決シ来テ戦争セントス 我藩幕府ニ上書シテ異舩ノ通航ヲ絶ン事ヲ請フテ曰ク幕府未タ長州ノ措置アラサルニ彼又来テ事ヲ生ス 其情憎ムヘシト雖共其謂レ無ニ非ス但我措置未タ決セサルマテハ通舩ヲ差止ラルヘシ彼若シ聴入レスンハ無罪ヲ鳴サレ一統へ攘斥ヲ命セラルへシ 於是彼若シ敗レテ退ク共長州の措置は果サレ萬一彼ニ勝利アル共皇国攘夷ノ儀ハ相立人氣モ一致シ拒絶ノ機會ヲ得タリト謂フヘシト云々既ニシテ談判調ハス八月五日ヨリ戦争トナリ互ニ勝敗アルノ後同十二地和議成テ退艦ス
【蛤御門の変】
五月長州山口脱藩濱忠太郎等多人數伏見ニ至リ主人大膳大夫父子并ニ三條實美以下勅勘宥免ノ嘆願書ヲ閣老稲葉長門守ニ呈ス 其後同藩家老福原越後願ノ筋コレアリト穪シ數百人ヲ率ヒ推登リ續テ國司信濃益田右衛門介ハ脱藩人鎮撫ト穪シ多人數ヲ率ヒ来リ 孰レモ淀伏見嵯峨天龍寺等所々ニ屯集シテ屡嘆願書ヲ呈スレ共聴レス 幕府ハ朝旨ヲ以テ屡歸國ヲ説諭スレ共彼モ亦承諾セス 斯テ七月十九日越後信濃右衛門介兵ヲ三道ニ發シテ闕下ニ迫ル 越後ハ前夜伏見ヲ發シ藤ノ森ニ至ル 戸田采女正人數砲戦シテ是ヲ退ク 猶竹田街道ヨリ進入セントス彦根勢ノ為ニ撃退ケラレ信濃名十九日暁會津勢ト蛤御門二於テ接戦シ轉シテ中立賣御門二推寄セ筑前勢ト決戦ノ處薩摩ノ兵来リ挟ミ撃テ之ヲ敗ル 右衛門介ハ鷹司邸似據テ堺町御門ヲ守レル越前勢ト苦戦ス 是亦薩摩兵来テ邸ヲ焼キ短兵突入右衛門介敗走ス 於是長州ノ兵皆敗レ西宮兵庫ヨリ海ニ航シテ本國ニ還ル 此時ニ當テ我藩兵未タ至ラス纔ニ京師在邸ノ兵寺町御門ヲ警衛シケル処敵モ亦襲ヒ来ラサルナリ

■六月三日宮部鼎蔵、池田屋事件において死す■
■七月十一日河上彦齊、京三条において佐久間象山を殺害す■


【第一回長州征伐】
七月廿四日諸藩ニ長防征討ノ勅命ヲ降サル速ニ兵隊ヲ國邑ニ備へ指揮ヲ待ツヘシ 若シ彼ヨリ妄動セハ命ヲ待タス進撃誅滅スヘキ旨ナリ 韶邦藩ニ在テ此變ヲ聞急ニ重臣ヲシテ上京セシメ天機ヲ伺ヒ奉リ且兵士ヲ部署シテ朝令ヲ待ツ先是韶邦京師ノ穏ナラサルヲ聞キ備頭溝口蔵人ヲシテ部下ヲ率ヒ京師ニ往キ不慮ニ備ントス蔵人未タ至ラサルニ京師既ニ鎮静シ且長防征討ノ命アリケレハ舩中ヨリ軍ヲ班サシム
今月廿八日長州征伐ニ付小倉表援兵ノ命ヲ承リ八月五日幕府ヨリ長防征討ノ總督紀伊中納言ノ指揮ニ随ヒ忠勤ノ抽ヲ速ニ勦滅スヘキ旨命セラル 其後中納言總督ヲ辭シ尾張前大納言ニ元帥ノ命アリ 十三日長州攻口割合定リ韶邦ハ小笠原大膳大夫奥平大膳大夫ト同ク海路下関ヨリ先驅ノ命ヲ受ク十六日備頭沼田勘解由ヲシテ先ツ部下ヲ率テ小倉ニ往シム

十月九日幕府ヨリ長州征討ハ急務ノ事ナリ討手ノ面々攻掛ノ報告アラハ将軍速ニ進發セント欲ス 猶尾張前大納言ニ命セシ事アリ急ニ出張シ其指揮ヲ得テ速ニ攻伐スヘキ旨命アリ 十一日總督府ヨリ十一月十一日マテニ諸軍各持口ニ至ルヘキノ命アリ 廿二日長防討手ノ諸矦近邦ハ當人遠國ハ在邸ノ重臣ヲ大坂城ニ會セラル 依之我京師在番ノ重臣小笠原一学之ニ會ス 總督府ヨリ軍令等數條ヲ授ケ十一月十八日ヲ以テ進撃ノ期トス
去ル文久二年閏八月幕府非常ノ果断ヲ以テ諸矦ノ参勤及ヒ妻子證人ノ舊典ヲ廃ス 然ルニ今般長州征討将軍進發ニ臨テ舊典ヲ復スルノ令ヲ下ス 韶邦以為ク此令出ルト雖共列藩疲弊ノ秋豈ニ奉命スル者アランヤ宜ク傍観スヘカラストテ十月廿一日使者ヲ関東ニ遣シ建言シテ曰ク参勤證人舊復ノ命ハ必ス深遠ノ台旨ナルヘシ 固ヨリ異議ヲ容ルヘキニ非ス殊ニ當家ハ先祖以来恩遇他ニ異レハ猶更自國ノ疲弊ニ拘ラス速ニ妻子ヲ出シ台意ヲ安スヘ期ナリ 然レ共此一擧ハ唯一藩ノ休戚ノミナラス天下人心ノ向背ニ関ル所ナレハ一人奉命スル共反テ不忠ニ均シ故二敢テ愚存ヲ陳ス 夫去々年非常ノ變革ハ深ク天下ノ困弊ヲ厭ヒ古今ノ形勢ヲ酌ミ列藩ノ富強ヲ勉メ世界第一等ノ強國タラシメントノ深旨ニテ既ニ叡感浅カラス天下列藩モ擧テ三百年来ノ仁政ト感戴し誠意ヲ尊奉ス 故二大小藩トナク朝武ノ為ニ砕身粉骨シテ厭ハサルナリ 然ルニ積年衰幣ノ末長州の征討外夷ノ儆備等一事ニナ幅輳シヌレハ猶萬緒寛免有テ富強ノ道格別ニ命セラルへキ時節却テ隔年参勤妻子證人ノ法ヲ舊復セラルゝハ果シテ何ノ深旨ソヤ恐クハ上下ニ信義ヲ失ヒ列藩愕然タラン 思フニ初メ舊典ヲ變更セラレシヨリ政権衰ヘタリトテ此ヲ舊復セハ威権確立列藩畏服スヘシトノ台意ナランカ愚ヲ以テ之ヲ観ルニ敢テ然ラス 方今天下ノ形勢最前舊典廃止ノ果断ナクンは諸侯益因循ノ獘ヲ重子愈困窮ニ陥リ海防の儆備等豈今日アランヤ此變易ノ道ニ的當シタル明算ナリ 天下ノ服スルト服セサルトハ人心ヲ得ト不得トニアリ参府證人舊典ニ復ストモ反テ人心歸向ノ路ヲ塞ケルノミ深ク痛惜スル所以ナリ 十四日使者閣老阿部豊後守邸ニ赴キ之ヲ呈ス 言聴レスト雖共又舊復ノ事行レス
【長州藩幕府に謝罪す】
十一月十七日韶邦護美ヲシテ代テ衆ヲ領シ小倉ニ赴カシム時ニ去ル十一日監軍戸川鉡三郎藝州草津驛ニ於テ長州ノ家老ヲ呼出シ征討ノ趣意演達ス 吉川監物之ヲ承テ罪魁益田右衛門介福原越後國司信濃カ首ヲ刎子志路安房ヲ以テ總督ノ實検ニ備フ 其他参謀ノ者斬首セシ旨ヲモ相達シ大膳父子ノ謝罪遮テ嘆願シ其後監物親ラ藝州ニ至テ父子ノ情實巨細陳述ス 總督実検畢テ十八日ノ進撃ヲ止ラレ尋テ三條實美等五人ヲ松平美濃守ヘ渡シ且山口城破却スヘキ旨令セラル 大膳皆奉命シ従テ三老臣暴行ノ一條平素の駕御ヲ怠リ罪科遁レ難キト云ヲ以テ寺院ニ蟄居恐懼謹テ裁許ヲ待トノ旨謝罪ノ證書ヲ出ス 三末家モ同ク證書ヲ出シテ陳謝セリ 是ヲ以テ督府我小倉ノ陳ニ使節ヲ送ラレ大膳父子服罪ノ姿相顕ハレ山口城破却等若目算ノ如クナラハ處置筋朝幕ニ伺ヒ諸藩ノ國議ヲ尋ラルへキ處寒天ニ臨ミ差急カルゝニヨリ先山陰山陽四國九州ノ説ヲ聞カン答歯重臣ヲ以テ差出スヘキ旨ナリ 依之護美ハ重臣郡夷則ヲシテ藝州ニ遣シ督府ニ建言シテ曰ク長州家臣嘆願の趣似て服罪ノ姿ハ顕ルゝト雖共暴臣ノ巨魁ニ就キ其首級實検ニ備ヘシノミニテ大膳父子及ヒ五卿其外浮浪激徒等未タ服罪ノ實状ヲ具セス 吉川監物忠義ノ歎訴筑州盡力保任ノ通リナラハ國内ノ情意其理ニ歸着セシ事ニ付大督府又ハ大小監官長州ニ赴カレ服罪ノ實跡見届ラレ往々餘燄再起ノ憂ナキ場ニ至ラハ父子謝罪ノ本意ニ協フヘシ其上ニテ参集ノ諸軍へ適宜ノ指揮有テ然ルヘキ歟 然ルニ今使命ノ趣ニテハ右件々ヲ差置カレ其罪ヲ論スル事如何アルヘキ夫刑政ハ人主ノ大権ナリ 近年國事多ハ下ヨリ啇議シ天下ノ事益紛擾セリ 其上重大ノ罪案タリ共家筋又ハ功労ニ依テ議セラルゝ事アリ然後其決ハ上裁ニ出ルヲ以テ議刑ノ大法ト承ル将又長防ハ諸藩ニ於私怨有ニ非ス 朝憲至當ニ出ナハ異論有へカラス旁以テ此處置ハ列藩ノ意見ヲ以テ議上スヘキ理ニ非ス重命ノ故ヲ以テ家臣は發遣スレ共處置下問ノ用ニ供スルニ非ス故二之ヲ辭スト云々 サテ又五卿受取ノ一條激徒承服セス混雑ノ趣相聞ケルヨリ諸藩會議速ニ臨機ノ處置ヲ命セラレ度旨拾二月廿九日護美副帥ニ建白ス 是ヨリ先總督長防伏罪山口城破却ノ躰見届ノ為名代トシテ石川佐渡守 尾州家老 ニ大小監官相添長州ニ下サレ大膳父子蟄居謹慎國内鎮静山口城破却ノ躰認メ異状コレナキニヨリ討テノ面々陳拂スヘキ旨十二月廿七日指揮アリ 翌年正月朔日副督ヨリ護美ニ傳ヘラル 是ニ依テ八日兵ヲ収メテ熊本ニ歸ル

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