小御所会議
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司馬遼太郎の「酔って候」を本棚から取り出し、ほこりを払って読み返している。あの容堂公の「幼冲の天子」云々の発言がなければ、この小御所会議はどうなっていたろうか。司馬遼太郎の著の上からも緊迫した様子がよく見て取れる。何時頃の放送になるのか、このシーンだけは何があっても見逃せないと思っている。
英国軍艦薩州ニ渡来ノ風聞アリ 因テ三月廿九日書ヲ奉ツテ下國ノ暇ヲ請テ曰臣帝都守衛ノ大命ヲ蒙り實ニ感銘ニ堪ヘス然ルニ領國ハ海岸廣遠殊ニ天草地方ヲ受ケ海防ノ要衝ニテ即今外夷薩海ニ逼ルト聞ク切迫ノ際ヒ防禦筋一層手厚ク指揮スヘシ且藩政ニ於テモ事々礙滞シ常ニ藩屏ノ任ニ背ン事ヲ恐ル 歸國ノ暇ヲ賜ラハ速ニ馳下リ彼此自ラ勉力セント欲ス且京地ノ守備ハ家老共両人并ニ兵隊ヲ残シ置キ名代トシテ一門ノ内一人急ニ呼登シ守衛セシムヘシ伏シテ願クハ臣カ微衷ヲ明察シテ天裁ヲ垂レ玉ヘト云々 四月三日許可アリ曰ク帝都の警衛既ニ奉命満足ス當節切迫ノ折柄自國海岸防禦筋尤専要ナレハ暇ヲ賜也家老及ヒ人數残置等ノ事満足ストノ勅命ヲ蒙リ廿一日熊本ニ歸着ス 於是一門長岡内膳ヲシテ京師ニ往カシメ代テ帝都ヲ警衛セシム
四月十一日岩清水社行幸アリ社頭警衛ノ朝命ヲ承ル 是ニ依テ三百餘人ヲシテ本宮馬場四方八角堂前通リ一箇所本宮東總門外一箇所警衛セシム
廿一日朝廷ヨリ外夷拒絶五月十日ヲ以テ期限トス 是ニ由テ各軍政ヲ整ヘ外夷ヲ掃擾スヘキ旨普ク列藩ニ布告セラル 此末五月廿三日馬関通行ノ夷舩ヲ長州ヨリ砲撃す 六月六日正親町少将監軍とシテ長州下向我藩士十人命ニ因テ随従ス
五月廿二日幕府ヨリ相州備場警衛ヲ免シ堀田鴻之丞ヲ以テ代リトス 是ニ於テ砲臺戎器等盡ク鴻之丞ニ相渡ス 六月廿四日武蔵相模預所モ亦免セラル 皆我請ニ因テ也
六月六日先是護美ニ上京ノ命アリケレ共方今夷ノ情切迫ナレハ國元海防モ有ルヘク暫ク上京用捨セラルゝノ間家老ノ内人數引率早々上京スヘキ旨更ニ命セラル 是ニ因テ坂崎忠左衛門ニ命シ部下ヲ率テ京師ニ往カシム
八月十三日攘夷祈願ノ為大和國へ行幸神武帝山陵春日社等御拝暫ク駐驛親征軍議ノ上伊勢神宮へ行幸ノ旨普ク勅命ヲ降サル
十四日幕府ヨリ西國郡代屋代増之助管轄所天草郡ハ韶邦封土ニ相接ス 故二蕃舩到来スル事アラハ増之助ノ請ヒニ應シテ士衆ヲ給スヘキトノ令アリ 於是豫メ士衆ヲ戒メ以テ微發ニ備フ
十八日洛中卒ニ騒然先是五月廿一日寺町門警衛ヲ命セラレケル故同所へ人數繰出シ長岡内膳ハ韶邦カ名代タルヲ以テ天機伺ノ為参内スルノ處御所中混雑入ル事能ハスシテ寺町ヲ警衛シ其子細ヲ尋ルニ今拂暁傳奏議奏参政國事掛ノ諸卿参朝ヲ禁シ堺町御門長州警衛ヲモ免セラレタル處ヨリ斯ク變動ヲ生シタル由ニテ其末三條實美以下七卿同日京地ヲ出テ長州へ下向アリ内膳ハ事鎮定ノ後参内天機ヲ伺ヒ奉ル
廿四日行幸暫ク延引然レ共攘夷ニ於テハ早ク成功ヲ遂へリ累年ノ叡念ナリ依テ勤皇ノ諸藩幕府ノ命令ヲ待タス速ニ掃擾スヘキ旨勅命アリ
廿五日豊後日田陳営且近傍縣地警衛ノ幕令有リ兵士ヲ發遣シテ不慮ニ備フ
廿六日内膳召ニ依リ参内天顔ヲ拝ス永々滞京守衛且十八日盡力ノ労ヲ賞セラレ真綿五束ヲ賜ル
九月四日猶又内膳ヲ召テ新町頭ノ警衛ヲ命セラル
九月五日朝廷富国強兵武備充實至急ノ時ニ付列藩ノ疲弊ヲ厭ハレ親兵悉ク免セラレ各邸中ニ差置キ急變アラハ速ニ馳来リ守護スヘキ旨命アリ
十ニ日傳奏飛鳥井中納言雅典ヨリ傳達アリケルハ今朝和州十津川浪士一人ヲ捕へ鞫問スルニ十四五間長州人多勢金剛山ニ屯セントス 我輩モ之ニ因テ事ヲ擧ントスト云へリ其言信用シ難ト雖共一旦同類相集ラハ遂ニ京師ニ来ランモ測リ難シ其藩坂崎忠左衛門ナル者昨今上京ト聞ク依テ金剛山及ヒ泉河二國ノ守衛を命セラレルトナリ 翌十三日内膳忠左衛門ヲ伴ヒ守護職松平肥後守容保二見テ曰咋金剛山及ヒ泉河ノ守衛ヲ拝命ス素ヨリ辭スヘカラス然レ共寡君曩ニ京師守護ノ重命ヲ奉承シテ専ラ士衆勉勵ス 衆亦闕下ノ守リヲ喜ンテ上京セリ然ルニ今遠来ノ労レヲ休ルニ及ハス 闕下ヲ離レ無形ノ地ニ赴クハ最モ願フ所二非ス 况ヤ今日和州五條ニ賊徒アリテ反間ヲ為スモ計リ難シ 金剛山ハ當時城砦ニモアラス 普通ノ山谷ナレハ長州人萬一彼處ニ打テ出ナハ却テ幸ナリ 其時ニ及テ退治ストモ何ノ後ルゝ事カ之アラン 今日ノ急務ハ京師ノ守護ヲ堅固ニスルニアリ 容保許諾ス且其意ヲ書シテ別ニ雅典ニモ呈ス 先是内膳下國ノ暇ヲ請フ是ニ至テ思へラク元来名代ノ重任ヲ受ケ今其危キ二臨テ下國スルハ本意ニアラスト猶京師ニ留ラン事ヲ請フ 朝廷其至誠ヲ嘉セラレ請ヒニ従ヒ滞京セシメ金剛山等ノ守衛ハ免セラレ此後内膳ハ護久護美上京ノ上暇ヲ賜リ十月四日京地ヲ發シテ歸國ス
九月廿三日桂川警衛ノ朝命ヲ拝す 廿八日二條邊警衛ノ朝命アリテ新町頭ノ警衛ヲ免セラル 翌年四月九日桂川警衛ヲ免セラル
前月京師變動七卿長州下向等ノ急報國元ニ到着藩内ノ人氣甚タ動揺シケル故韶邦ハ専ラ鎮撫ニ盡力シ急ニ上京成リ難ク弟長岡護久ヲ名代トシ萬般委任して上京セシメ護美モ朝廷ヨリ召レケレハ一同九月十一日熊本ヲ發シ廿八日京師ニ至リ先ツ天機ヲ伺ヒ奉テ後守護職肥後守容保ノ邸ニ至リ公武調和ノ為将軍上洛アラン事ヲ談ス 某末十一月十一日横濱鎖港ノ事宸問アラセラレ度将軍早々上洛アルへキトノ詔ヲ下シ玉フ 是ニ因テ将軍拾二月廿七日品川發艦翌年正月八日大阪入城拾五日上洛有テ直ニ二条城ニ滞在ナリ