津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

小笠原一族

2010-05-10 18:44:53 | 歴史
 第二次長州征伐に於いて九州に於いて指揮をとったのは、老中(唐津藩主)小笠原長行である。
細川家は早々に駆けつけ、高杉晋作引き入る毛利軍に手痛い打撃を与えた。しかし諸藩が出陣をためらい、小笠原長行が将軍家茂の訃報を聞き蒸気鑑で大坂へ逃げ出した。肥後藩も毛利藩との戦いを避けて兵を引揚げた為、小倉藩小笠原家は独自の戦いを余儀なくされ、小倉城を自焼直前に亡くなった藩主の一族や藩士家族は細川藩を頼って逃避行の果て、熊本で保護された。一時期小倉の地は長州藩の管理する所となった。豊前小倉・小笠原家も老中・小笠原長行も先祖を辿ると、小笠原秀政へと至る。秀政の娘婿である細川忠利の10代目の子孫・韶邦が、小倉小笠原家の面倒を見た。
細川家家臣の小笠原氏(多宮家)、溝口氏も小笠原一族である。膨大な枝葉を広げた一族である。
   
徳川家康---信康
         ∥-------登久姫
織田信長---徳姫       ∥-----+---●松平(蜂須賀)阿波守至鑑室
             小笠原秀政   |      初代
                       +--忠脩---長次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→中津藩
                       |                    
                       +--忠眞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・豊千代丸・・→小倉藩
                       |                          肥後細川藩で保護
                       |
                       |  細川忠興・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・韶邦・・→肥後細川藩
                       |      ∥
                       +---●保壽院
                       |                     老中・第二次長州征討指揮
                       +---忠知---+--忠矩--長重・・・・・・・・・・・長行・・→唐津藩
                       |        |
                       |        +--忠定---+---長卿
                       |                |
                       |                +--長賢・・・細川家家臣・小笠原家
                       |  松平   初代
                       +---重直---英親・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→杵築藩
                       |
                       +---忠慶
                       |  溝口氏(養子)  初代
                       +---政房--------政房・・・・・・・・・・・・・・・細川家家臣・溝口氏
                       |
                       +---昌行

因みに長行の先祖は、杵築藩→三河吉田藩→岩槻藩→遠江掛川藩→陸奥棚倉藩そして肥前唐津唐津藩へと、度々の転封をしている。
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細川家譜--細川韶邦譜 ・・ 7

2010-05-10 13:55:34 | 細川家譜

於是相議シテ謂ラク我藩ノ長防ニ於ル聊怨恨アルニ非ス 只天幕ノ命ヲ奉シテ出兵シケルカ諸藩應セス 今日ノ姿ニ至ルハ元是處置ノ宜キヲ失ハレタルヨリ醸シ来ル事ナレハ人ヲ征セラレンヨリハ既往の過ヲ自反自責シテ其根本ヲ確定アラン事即今ノ急務ナリ 此儀ハ既ニ壱岐守へ屢建白スト雖共遂ニ用ヒラレサル内彼ヨリ衅ヲ開キタルニ依テ一戦スルハ固ヨリ其分ナリ 然レ共幕軍及ヒ諸藩ハ唯傍観スルノミ猶此上兵刃ヲ交ユルトキハ一己私闘ノ姿ニナリ我ト長ト怨ヲ結ン事素ヨリ本意ニ非ス 乃チ監物蔵人壱岐守ニ見テ告之晦日悉ク軍ヲ引揚ル 此日壱岐守亦将軍大坂ニテ大故の訃音アルニヨリ至急ニ上坂ストテ蒸気艦ニ乗リ去ル 於是小倉表瓦解シ自ラ城ヲ焼藩士四方ニ散亂小笠原豊千代丸母子及日末家小笠原近江守室小笠原幸松丸我軍ノ後二就テ熊本ニ至リ韶邦ニ寄ル 韶邦舊戚ノ故ヲ以テ之ヲ城下ニ置ク 近江守ハ長州人ノ尾撃ヲ支ン為田川郡採銅所ノ険ニ據リテ守ケル 其後幸松丸ハ所領播州安志ニ歸ル 又小倉ノ兵ハ将軍薨去ノ故ヲ以テ姑ク停止ノ命有ト雖共長州ノ侵略止マス依テ薩州ヨリ韶邦ニ議シテ止戦ヲ周旋シケル中慶應三年ニ至リ國喪ヲ以テ一統休兵ノ詔ヲ下サレケルカ質子ノ事ヨリシテ休戦行レス小倉領ハ一圓長州ニ預ケ藩士は僅カ田川一郡ニ退去シテ少ク平穏ナリ 其後小倉地元ノ如ク小笠原氏ニ歸シ豊千代丸母子共ニ明治元年三月豊前ニ歸ル

八月廿九日護美一橋中納言慶喜ノ招ニ應シテ熊本ヲ發シ九月九日京師ニ至リ十日慶喜 此時将軍家茂薨ス故二慶喜徳川家ヲ継未田軍職ニ任セス ニ謁シ天朝幕府共ニ自反自責民ト更始一新ノ大本ヲ確定セラレ度トノ國論ヲ精細ニ陳言シケルニ慶喜ノ意亦符合セリ 十五日暇ヲ告テ京師ヲ發シ十月朔日熊本ニ歸着ス

肥後國天草郡ハ日田縣ニ属シ代官ノ陳屋ト隔絶ノ地ナル上夷舩屡来泊ノ由相聞へ世シク二常ニ番兵ヲ置テ不慮ニ備フヘキ旨當四月廿二日幕命有リト雖共長防出師ノ故ヲ以テ遅延ス 於是銃隊長一人士七人銃卒百人ヲ天草ニ遣シ銃隊長一人士一人銃卒七十人ヲ日田縣ニ遣シテ警衛セシム時ニ十月九日ナリ

三年丁卯二月三日幕府ヨリ松平主殿頭預所豊後國速見郡大分郡村々及ヒ西國郡代管轄地豊後國々東直入二郡村々韶邦ニ預ラレ非常ノ防禦モ命セラレ且天草郡村々非常ノ警備ハ永ク命セラルトノ旨ナリ 預所高二萬二千三百八十石三斗一升六合一勺ニ撮ノ高帳を受取ル

先是乙丑年十月外國ト條約勅許ノ時兵庫開港ハ止メラル旨勅命アリト雖共幕府直ニ此ヲ外国ニ示サハ忽チ兵端ヲ開カン事ヲ恐レテ姑ク之ヲ止メ置カレケルカ今年ニ至リテ彼ヨリ頻リニ開港ヲ申立ルニヨツテ己事ヲ得サル時期ニ至ル 於是幕府ヨリ更ニ開港ヲ奏セントス 韶邦存意アラハ書ヲ以テ建言スヘキ旨台諭アリ 韶邦藩ニ在テ之ヲ聞三月封書ヲ以テ建言シテ曰ク夫兵庫は帝都ニ近く開港ハ好マサル事ナレ共幕府既ニ萬國ノ形勢洞察セラレテ條約有タル上ハ今日ニ至リ開港止ヘカラス然リト雖共人心ノ不和海内ノ動揺ヲ生スルモ實ニ開鎖ノ両端ニ基ク故二朝幕一致ノ命令ニ出スンハ必ス復混亂ヲ生セン 最モ慎マサルへカラス因テ京攝間ノ警衛愈厳重ニシテ朝廷ハ素ヨリ上下ノ人心モ安堵スヘキ程ノ兵備有之従テ交易儀モ制ヲ彼ニ受ケス公共ノ理ヲ以テ何方モ便利ヲ得民心ヲ破ラサルノ良法ヲ設ケラレ度ト云々 其後将軍ヨリ朝廷ニ建議シテ開港ノ勅許ヲ請ヘルニヨリ重大ノ事件ナレハ韶邦モ早々上京し存意伏臓ナク言上スヘシ若シ病似て遅延セは書ヲ以テ四月中ニ建言スヘキ旨三月廿四日下命有リ 依之韶邦四月書ヲ以テ建言シテ曰ク根元兵庫は帝都ヲ距事遠カラサレハ開港ハ如何ナレ共幕府年来洋夷ノ情實宇内ノ形勢ヲ洞察シ殊更外國ニ對シ一旦條約ヲ結ヒタル末破談ニ及ヒテハ信義立難キ處ヨリ既往ノ過失ハ大樹ノ一身ニ負荷して嘆願ノ事ナレハ朝廷ニ於テモ大小軽重篤と参酌セラレ朝幕一致ニ出テゝ愈軍國ノ警備ヲ盡シ萬般公共ノ政道ヲ以テ各國ヲモ壓倒スヘキ國躰ヲ立ラレン事ヲ希フト云々 其後五月廿六日朝廷ヨリ兵庫開港ハ容易ナラス殊ニ先帝止置セラレケレ共大樹時勢止ヲ得サル言上諸藩建白ノ趣モ有之止ヲ得ス差許サル就テハ諸事取締ヲ付ヘキ旨布告アリ

韶邦去年朝廷ヨリ數召命ヲ受ケ護久ヲ名代トシテ上京セシメン事ヲ請フ 其後長州小倉休戦ノ談判整ハス就テハ韶邦領内へ小倉ノ老少男女遂日来リ集リ両豊ノ諸藩ハ今ニモ長州ヨリ進撃ノ勢ニテ依頼ノ向モ不少日田表ノ儀ハ豫メ幕命モ有之措置儆備等國事紛雑護久上京遅延シ稍ク五月十八日熊本ヲ發シ廿八日京師ニ至リ天機ヲ伺ヒ奉リ且朝幕ノ命ヲ奉ス 六月廿七日御所ニ於テ今度召ニ應シ登京叡感斜ナラス 國事多端ノ時ユヘ暫ク滞在盡力シテ宸襟ヲ安シ奉ルヘキ旨命セラレ畢而酒三樽鯉十尾を賜ル 其後在京公武ニ勉勵ノ處不圖年来ノ眼疾ヲ發シ久シク滞京スル能ハス止ヲ得ス歸國セン事ヲ請不 朝廷之ヲ許サレ且登京ノ労ヲ慰セラレ扇子ヲ賜フ 又将軍ヨリモ懇命ヲ以テ茶菓及ヒ舶来ノ小銃ヲ賜フ 七月十八日熊本ニ歸着ス  
                        細川家譜・巻九(了)

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