■同(御着座後)時習館江御入之式
年頭并御発駕前
御入之御式相替儀無之
一、御登城御奉行所より御当所江
被為入候間麻上下着
御登城前出仕之事
但右之出前点外也例之通路次より
君子齋江罷出候大御目附も一所
之事
来ル幾日時習館江御入ニ付諸師役
被召で候段ハ、助教江御用番より
以紙面申達候事
御登城以下御出之儀、御用人より
達之事
一、御入前御奉行学校方一人助教御目附
詰所江相見候事
一、御入前諸師役ハ講堂ニ繰付有之候
例之聴衆之通ニて西頭北向ニ座着尤
鏡板之カマチより一間餘も引下り坐着
と相見候事
但此座着之程合ハ人数之多少ニも
より可申事
一、東間より被遊御入候御中門外喰違出居
之間、北側並木之下ニ御奉行御目付ハ出方無之
助教学校御目付等相揃東頭ニ罷出
候事
但初御入國之御初入之節ハ南門
御通り尊明閣より被為入候得候へとも
御平年ハ本行之通
一、御居間之北軒口より日覆差御有之
箱段下二間ニ三間程御敷出有之
候事
一、御奉行所御供廻御注進有之夫より多門より
講堂南西ノ御入側を通り
御居間御縁伝イより北ノ御縁箱段
より下り御敷出ニ罷出候事
但押立たる御注進ハ此一度ニて候事
一、御敷出ハ御打場口候御取次一人
御駕付之所江罷出居南側御用人
其次ニ大御目附北側御小姓頭其次
少引下り箱段之向通り位ニ同席見習
之人共東頭ニ罷出候
一、御中門内ニ御駕御乗入之時分より次第ニ
平伏御駕居り候所ニて御三拝儀御一ト通
御意有之其上ニて頭ヲ上ケ御居間江
被為入候而大御目附等之跡ニ付上り脇差を
脱持元之如御縁通御座之御向通りハ
御見懸ニて無之共敬之罷通講堂西
之中御入側御次入口二枚屏風之外東向
北頭ニ見習之人共一所ニ座着之事
但同席座着之後手西外之御入側
二三間程御屏風囲出来御次江取入
御茶道なと罷出居候と相見候事
一、夫より御用人案内有之御次江罷通左手
障子之元ニ脱剣見習之人一同御居間江
南頭へ罷出候事
一、御居間御敷居外ニて御三拝儀是江ト被遊
御意候付、御敷居内ニ摺入館中不相替
旨恐悦申上、御手熨斗長被下候間頂戴之
左江開直ニ御次江下り帯剣二枚屏風
之外元之所ニ坐着之事
一、同席召出之内ニ御奉行助教学校
御目附講堂西外之間御入側ニ罷出居
同席下り候上於御居間被召出御奉行
副役ニて候ヘハ御手熨斗ハ無之由候事
但此時列坐等無之候事
(2へつづく)
花畑邸に「中柱の間」と名付けられた部屋がある。
公的に使用される奥まった部屋だが、古い絵図によると4間×5間(定かではない)ほどの広さがあり部屋の真ん中に柱がある。これが「中柱の間」の命名の所以であろう。この部屋は「御花畑中柱御間より御奥向御裏御殿迄之図」によると三拾八畳半とある。その上(東側)に間仕切壁で仕切られた部屋がありこれが三拾畳とある。後代の絵図によるとこの二部屋をもって「中柱の間」とするものが見受けられる。不思議に思っていたのだが、この二部屋は大部屋として使うためにその仕切り壁を取り外したと考えると辻褄が合う。もともとの部屋の中央にあった中柱と、襖が立て込まれたかもしれない元の仕切り壁の中央の柱が残った。つまりは六拾八畳半の広間に二本の中柱が残ったことに成る。(・・と考えたのだが、わたしのこの推論を裏付ける絵図がない・・クク・・)
公的に使用される奥まった部屋だが、古い絵図によると4間×5間(定かではない)ほどの広さがあり部屋の真ん中に柱がある。これが「中柱の間」の命名の所以であろう。この部屋は「御花畑中柱御間より御奥向御裏御殿迄之図」によると三拾八畳半とある。その上(東側)に間仕切壁で仕切られた部屋がありこれが三拾畳とある。後代の絵図によるとこの二部屋をもって「中柱の間」とするものが見受けられる。不思議に思っていたのだが、この二部屋は大部屋として使うためにその仕切り壁を取り外したと考えると辻褄が合う。もともとの部屋の中央にあった中柱と、襖が立て込まれたかもしれない元の仕切り壁の中央の柱が残った。つまりは六拾八畳半の広間に二本の中柱が残ったことに成る。(・・と考えたのだが、わたしのこの推論を裏付ける絵図がない・・クク・・)