津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

大道とか宜貞とか・・刀工のこと

2010-10-26 09:33:28 | 歴史
細川家の旧領、豊前の宇佐八幡宮の宝物館に 大和守藤原宜貞の刀が奉納されているという。
元和六年十二月、細川忠興の家臣の河喜多五郎左衛門正重が長剣を奉納 。
寛永三年三月には忠興自身が短剣を奉納したとされる。

「福岡県史、近世史料編・細川小倉藩」には、忠利が家督した直後の元和九年五月から、肥後入国直前の寛永八年十一月までの覚書や日帳が納められている。
このなかに刀工(刀鍛冶)の宜貞や大道のことが度々書かれている。

 ・大道打替、上ケ申候御腰物、御大脇指・大小弐腰請取置候事(9/5/6)
 ・大道打之御大脇指、寺尾左介(勝永)方へ渡ス也(9/5/9)
 ・当町ニて、似横目ノ似仕候者、今日誅伐仕候、御大脇刺大道打、一ノ筒ヲためし申候、
  あばら弐枚かゝり申候(9/5/10)
 ・寺尾左介所より、大道打之御脇刺筒ヲためし、あはら弐枚かゝり申候ヲ、今一度ためし
  申候やと被申、持せ被上候(9/5/16)
 ・大道打、宜貞打ノ御腰物弐腰、とき(研)・はゝき(鎺)出来候事(9/5/23)
 ・宜貞打ノ御大脇指壱腰、うちかへ上ケ候事(9/5/晦日)
 ・(国遠)道倫小者久次御成敗候事 御大わきさし宜貞、御腰物大道、何も筒落候也 (9/6/16)
 ・宜貞打替候御腰物壱腰、けん鑓壱つ、さゝのは(笹葉)鑓壱つ、大道打ノ中わきさし壱腰
  寺尾左介より被上候を・・・・(9/8/10)

元和九年のみを抜粋しても以上のようで、大道・宜貞の二人の名前が出てきており、宇佐八幡宮に納められた刀剣もこの宜貞の作によるものであろう。刀の刻印から宜貞は忠利の国替えに随伴して肥後に入っていることが判る。
この時期いまだ戦場をへ巡る武士の荒々しい気風が残されており、試し切りなどが日常的に行われていることを伺わせる。忠利自身も行っている。

又、大道については「倉谷(舞鶴市)」というサイトに次のような記載があった。
          http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/kuratani.html           

福来に「大道」と称する刀工鍛冶集団が居たらしいことが「宮津府志拾遺」の中に見える。
 「大道安輝 其先勢州関(三重県津市)住人、細川時代(一五八○~一六○○)田辺地下に来住す。関にては、大道(ダイドウ)という、丹後にては大道(ヲヲミチ)と称す。
 後年京極侯に従い宮津に来住す。高国侯(京極)の時、江戸に出て安定といへる名鍛冶の弟子となり安輝と名乗る。子孫干今有り代々安輝と名く」とあり、「田辺地下」とは、当地の「福来小字大道」でなかろうかと思われる。
 大道の周辺に当たる倉谷の大泉寺、東山寺辺りに「小字カジヤマエ」の地名が伝えられており、ここに、大道刀工鍛冶集団が細川侯の招きにより、来住していたものと思われる。
 その後、細川侯が九州へ転赴された際、大道集団の一部が肥後へ移ったとみえる。「肥後御入国宿割」によると、豊前より肥後へ移る際の刀匠として「拾石刀鍛冶大道左兵衛」「五人仝才次郎」の名が見え、この方達は田辺より肥後へ移った人達であろうと思われている。
 一方、田辺に残った「刀工大道」は、京極家に従い宮津へ移住している。
 これ等の状況により、福来の「だいどう」は「ををみち」ではなく、大道鍛冶集団が居住していたため、今に、「だいどう」の地名で呼ばれて来たものと推察される。 (余内小史千坂哲雄氏、大道刀工高田守氏の資料を参考にさせていただく)

又、未見であるが次のような論考があった。ぜひとも読んでみたいと思っている。
「地方史ふくおか」第110号(第34巻第1号) 2001年8月31日発行
豊前小倉の刀工、大道一派の系譜 …細川藩時代前後における豊前系大道と美濃系大道… 河野正彦(小倉郷土会)

追記:2010/11/1
  妙解院殿忠利公御代於豊前小倉「御侍帳并軽輩末々共ニ」に、次の記載が見える。
 ・細工之者諸職人
       拾石     刀鍛冶  大道左兵衛
       五人     刀鍛冶  大道左太郎
       拾人扶持  鑓鍛冶    宣貞
コメント (1)
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