御城を出られた藩主は西大手門脇の奉行所に入られるが、今回はその「御奉行所御入之式」である。次回「史談会例会」に先立ち、
奉行所の間取図を見たり、奉行の構成を「官職制度考」などを眺めて・・予習である。
■御着座後御奉行所
御入之式
年頭并御発駕前御入之御式
相替儀無之
一、御登城より御当所へ被為入候間麻上下着
御登城前出仕之事
但政府ハ御勝手方より罷出候間両人之節者
両人共出勤差支之節ハ其外よりも罷出候
一、出勤之上先毎之所ニ毛氈敷有之候間、此所ニ
刀を脱置候得ハ、御入前坊主より機密間江
直ニ置、御立後差出候事
一、詰間江者
公儀御法度之懸札外ハ張上刀懸等
皆取入ニ相成候事
但毎ハ畳敷替ニ相成候へ共、以来ハ有懸
之侭ニ而差直候事
大目附ハ御城時習館江出方有之
政府江者出方先ハ無之候事
一、御先番之小姓役等相見候ヘハ御用人より
御取次を初召連詰間江参、御刀懸等
出之御雪隠見繕下居候事
一、御注進前詰間煙草盆硯箱其外
総而坊主より取入候上、何連も口之間江参
西壁付北向南頭江坐着、御注進を相
待居候事
但大御奉行右同断
文化十三年六月十九日御入之節雨天ニ付
傘被遊御免旨ニて御小姓頭より
差図有之候間、御時宜申上候節迄傘
取候由之事
一、辻為御目見御奉行中ハ御玄関栗石
罷出、御目附中ハ御侍口前ニ罷出
其外御役人中士席巳上中門と中門之廣キニ
御左右ニ罷出、且又大手内ニ請場々々
罷出候御役人有之候事
一、御注進左之通
御城御立 御城御供廻
一、右御城御供廻ニて御用人等一同御敷出ニ
下り御敷臺脇南塀を後ニして壁を左ニ
取北向東頭ニ坐着之事
本文東頭と有之候得共、諸御先番等都而
御出之方を口ニ致候事ニ付、舎人方申談
御出方を口ニ坐着致し候事
一、文化十三年六月十九日御入之節雨天ニ而
御駕御敷出之上ニ居御出迎難成
候付、宇右衛門嘉津次儀会議
御入之時之通り御玄関箱段ニ罷出候事
政府ハ御小姓頭御先番無之
一、御路次内ニ御駕御乗入ニ相成候時分
より次第ニ平伏、御駕居候處ニて御辞退
御一ト通り御意有之、其上ニ而頭を上
被遊御上候御跡ニ付口之間始之通
坐着控居候事
一、夫より御小姓役御口祝差上候而御用
人より案内有之候得ハ、口之間南壁付ニ
脱剣一同ニ罷出、詰間敷居外ニて御辞
儀是江と被遊
御意候上、尚ニ南頭ニ御敷居内ニ入
御奉行所不相替旨恐悦申上
御手熨斗鮑頂戴之仕、左江披口之間江
退去之事
但同席被召出候内御奉行以下被
召出之御役人口之間へ繰付有之候、尤
是より差図等之手数無之
大奉行并御奉行本役迄御手熨斗
被下置、左候而御口祝取入候上、副役御目付附
御郡御目付御勘定役書役まて被召出候事
但同席列坐無之御用人諸事
取計之事
一、右之面々召出相済候得ハ、直ニ御供廻り
候付、御敷出初之通罷出、御玄関
被遊御下候時分より次第ニ平伏御一ト通
御意被為在候間、御時宜御駕之戸
立候上、頭を上ケ奉見送、御用人等一同ニ御
辞儀退去銘々之坐ニ着候事
一、御算用頭は召出無之、辻
御目見ニ罷出、御穿鑿頭ハ其儀
無之候事
一、夫より御奉行始ニ召出候御役人一切ニて
詰間被罷出恐悦被申述候事
一、右之通ニて相済、時習館へ被為
入候御間ニ南御門通り御帰殿前
御花畑江出仕之事
一昨日の「妙解寺の建物」では詳しくご紹介しなかったが、その中の一つに「智照院」がある。もともとは清陰庵といっていたが忠利の二男・尚房が亡くなった後、その法名から寺号を「智照院」と変更し、以降尚房一族の墓所となった。妙解寺の西の端にあたり、現在ではその敷地の相当部分は道路となってしまった。妙解寺はかっては水運の船が行きかう祓川(旧・井芹川)の流れで囲まれていたが、現在は埋め立てられ細い水路がわずかに残るばかりである。
四年前の今頃(2006,10,6)の新聞に「細川分家の墓確認」という記事があった。
忠利の二男尚房一族八人のお墓を、九州新幹線工事に伴い熊本市教育委員会が調査をしたものだ。尚房とその妻、尚房の生母(永寿院)、長男尚方とその妻、二男、長女、二女の八人である。その調査報告は2008年3月「智照院細川家墓所 -花岡山・万日山遺跡群第一次調査区発掘調査報告書」で詳しく報告がなされている。
光尚の死後肥後熊本を三分割しようという案があった。六丸・宇土細川家そして光尚弟・尚房である。綱利が幼いながら54万石を襲封するわけだが、これには尚房の岳父・松井寄之(忠利末弟)の努力があった。光尚室は寄之娘、尚方室は松井直之の娘であり、八代松井家とのかかわりが深い一族である。綱利襲封から17年後、尚房は二万石を拝領する。完全に綱利の支配下に組み込まれた。遣領は息尚方がそのまま受け継ぐが、貞享五年(1688)二十歳で死去する。継嗣がなく結果として絶家するのだが、尚房室・慈法院は享保12年(1727)85歳、尚方室・瑞仙院は享保11年(1726)57歳で亡くなり、一族は絶えた。
四年前の今頃(2006,10,6)の新聞に「細川分家の墓確認」という記事があった。
忠利の二男尚房一族八人のお墓を、九州新幹線工事に伴い熊本市教育委員会が調査をしたものだ。尚房とその妻、尚房の生母(永寿院)、長男尚方とその妻、二男、長女、二女の八人である。その調査報告は2008年3月「智照院細川家墓所 -花岡山・万日山遺跡群第一次調査区発掘調査報告書」で詳しく報告がなされている。
光尚の死後肥後熊本を三分割しようという案があった。六丸・宇土細川家そして光尚弟・尚房である。綱利が幼いながら54万石を襲封するわけだが、これには尚房の岳父・松井寄之(忠利末弟)の努力があった。光尚室は寄之娘、尚方室は松井直之の娘であり、八代松井家とのかかわりが深い一族である。綱利襲封から17年後、尚房は二万石を拝領する。完全に綱利の支配下に組み込まれた。遣領は息尚方がそのまま受け継ぐが、貞享五年(1688)二十歳で死去する。継嗣がなく結果として絶家するのだが、尚房室・慈法院は享保12年(1727)85歳、尚方室・瑞仙院は享保11年(1726)57歳で亡くなり、一族は絶えた。