芦屋市在住のTさまから、舞鶴市で9/16~10/17まで開催されている、「近世の幕開け-細川幽齋公没後四百年」に関する資料をお送りいただいた。
9月18日には細川佳代子様の講演「細川家を支えてきた女性たち」が行われている。
その資料として「冨姫様より齊護公へ御教訓」という一文があった。
冨姫様とは細川齊護公のご生母である。支藩宇土細川家八代藩主立之公の正室栄昌院である。その嫡男立政(宗家に入り齊護)は、文政八年父・立之の死去に伴い十五歳で宇土支藩の藩主となった。ところが細川齊樹が病気となり(死去とも)急養子の形で、宗家を継ぐことになる。文政九年四月家督、二十三歳であった。上記の文はそのときのものである。
「このたび存じがけなく、龍之口ご相続の儀まことに御身においてこの上もなき御誉、この身迄も面目これにまさり候こと無く候、ついては御心得の端にもと及ばずながら書き付け候」という書き出しで始まるこの文章は、教訓の文章であるとともに愛情いっぱいの我が子への想いに満たされている。感動の一文である。
柴桂子著「女性たちの書いた江戸後期の教訓書」に、「栄昌院の文」という項がある。
宇土家藩士・佐方信規が著した「栄昌大夫人遺事」を資料として書かれている。
ここで紹介されている一文は上記のものとは違うがご紹介しよう。
一筆申入候 此度そもじどの御事御大国を御拝領ニ付而は第一奢侈ヶ間敷事
無之様御心得専要ニぞんじ参候 倹約いたされ候ハゞ家来ニ候倹約は不要に
御座候 手元之倹約なされ可然候
衣装諸道具決而物すき無之様只々先君之御垢付又は右之御道具御拝領御用
事御心得候様存候
酒宴に長し不申候様 就而は婦人を数多抱継不被申様何事も先規之通たるべ
し右之通此節は入部ゆへやもしなからさばかり御意見申入候 兎角先々君(齊
茲)に御伺御教政筋専一ニそんし参候 千秋万歳
文政九丙戌年
八月
母より
中務殿
栄昌院は宛名を「中務殿」としているが、 この手紙の時期はすでに従四位下侍従に叙任、越中守齊護を名乗っているのだが、八月とあるのは佐方信規の誤記ではなかろうか。
この栄昌院の父は、時の老中・土井利厚(
下総古河藩第3代藩主。土井家宗家10代)である。長きに渡り老中職を務めた稀有の人である。このような家に生まれながらも、栄昌院はおごることなく夫に仕え、子を厳しくも暖かい心で育て、家臣に思いをはせている。齊護のあとを継いだ二男・行芬は当時十五歳、栄昌院の子育てはまだまだ続くことになる。