津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御花畑邸の「地震の間」

2010-10-04 17:22:32 | 徒然
 ガラシャ夫人の最期について「関原集」は次のように記している。 
「大坂玉造ニ越中守屋敷有、奥方の仕置ニ地震の間と名付、八畳敷を拵、四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置、何時も大地震或火事ニ而も外へハ不出、地震間へ奥方御入候而火を付、焼死る佐(作)法に相定置・・・」
「四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置・・」という記述は、ガラシャ夫人に殉死した河喜多氏の資料によると、部屋の四方の鴨居に火薬を仕掛けて火を放ったとあるから、内容的には同様のもので信頼性の高い話ではないかと理解している。

 通常「地震屋(間)」とは、地震に備えた構造を堅固にした建物と思いがちだが、「関原集」の記すところによると、いささか意を異にする。豊前入国後の忠利代、小倉城内に「地震の間」の建設にかかわる記述が、福岡県史「小倉細川藩」で伺うことが出来る。同様の目的をもっての事であったのだろうか。

 肥後入国後はどうであったか。正室は江戸住まいが義務付けされているから、頭書のような性質の建物は必要ないと思われるが・・・実は存在していた。御花畑絵図の初期のものにこれが書かれている。藩主の居室のすぐ後ろに4.5間×7.0間ほどの建物がある。入り側を廻した12畳と8畳のニ間という間取りである。後代の絵図にはこの建物は書き込まれておらず、取り壊されたのであろうか。平和が訪れた時代不要の建物となったのか、どうも「奥」からお庭を望むにこの建物が邪魔をしているように思える。真実はいずこにあるのか、大変興味深い。
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御奉行所

2010-10-04 13:28:38 | 歴史
 藩主の居館・御花畑から東坂(現・行幸坂)を登ると、東大手門に至る。その左手に櫓に囲まれた一角があるが、ここを奉行丸(西出丸跡とも)とよぶ。かって御奉行所があったところだが、加藤時代は加藤平左衛門の中屋敷であった。1、200坪ほどの敷地にぎっしりと建物建てられていた。
 文書を読むと「政府」という言葉が出てくるが、この御奉行所こそがそれである。大奉行(1人)、奉行(6人)の下に下記のような部局があり、選挙方・郡方・刑法方は一局独立し、その他の局は二局、もしくは四局を合併して六人の奉行が兼任する形で割り当てられた。
  
  ・機密局 國中の大事、告論の号令、士の選校、勲封考課、積分三年大比賞罰の政令を司る。
         (奉行全員で此局を指揮す) 家老・大奉行が指揮す。

  ・選挙局 歩使番以下、官吏卒徒隷に至る迄、進退の政令、考課忠課賞褒、及市井農商の勤
        惰褒貶を司る。

  ・郡局   國中戸口圖籍、井田貢賦の補欠勾會、川瀆陂地、築堤、堰決、溝洫、河渠の導達、
        山林の蕃滋、牧牛蓄馬、養蠶桑樹、土木道路、橋梁舟筏の政令、又貧民賑恤の事
        を掌る。

  ・刑法局 罪人を治罰する事を掌る。
    
  ・當用局 當番奉行の府なり、日々雑事、臨時の用を取調ぶ
         (種々の書類を受附担当の局に配布す)     
  ・客屋局 巡見使諸侯の通行、諸方の来賓、使節来住、吉凶禮の儀式、都て他郷に係りたる
        事、及使僧飛脚の類、君公東都参勤朝聘を掌る
  ・普請作事掃除道方 土木の事経営興造の衆務、普請は城郭石壁修築を指揮し、作事は公
        館の経治興造■塀の修理を指揮し、掃除は城中を始め、公館庭中、都下街道の掃
        除、堭塁の修理を指揮し、道方は道路の修造を指揮す。
  ・船方   川尻、鶴崎両水塞の舟檝指揮を掌る。
  
  ・勘定局 國中勾會度支、金銀銭粟出納の指揮を掌る
  ・城内局 城中の出入、戎器の修造、資糧一切、城内の政事を掌る
  ・学校局 学校の上府なり、学政を掌る
  ・屋敷局 都下侍屋敷大小身より、中間に至るまで、住居の屋敷、出入の指揮を掌る

  ・町局   城下市中の支配を掌り、公事訴訟、萬事の指揮を取調ぶ
  ・寺社局 佛寺、神社、修験、沙門巫祝の類の支配、神明祀祭、災祓除禳、及公廟享祭、
        道佛葬儀の事を掌る。

  ・類族局 耶蘇宗門改、生死存亡、改名住所替、縁組等を掌る。
  ・(手当方) 軍國師旅の事を掌る。・・・・(後年設けられた部門)
      
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