ガラシャ夫人の最期について「関原集」は次のように記している。
「大坂玉造ニ越中守屋敷有、奥方の仕置ニ地震の間と名付、八畳敷を拵、四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置、何時も大地震或火事ニ而も外へハ不出、地震間へ奥方御入候而火を付、焼死る佐(作)法に相定置・・・」
「四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置・・」という記述は、ガラシャ夫人に殉死した河喜多氏の資料によると、部屋の四方の鴨居に火薬を仕掛けて火を放ったとあるから、内容的には同様のもので信頼性の高い話ではないかと理解している。
通常「地震屋(間)」とは、地震に備えた構造を堅固にした建物と思いがちだが、「関原集」の記すところによると、いささか意を異にする。豊前入国後の忠利代、小倉城内に「地震の間」の建設にかかわる記述が、福岡県史「小倉細川藩」で伺うことが出来る。同様の目的をもっての事であったのだろうか。
肥後入国後はどうであったか。正室は江戸住まいが義務付けされているから、頭書のような性質の建物は必要ないと思われるが・・・実は存在していた。御花畑絵図の初期のものにこれが書かれている。藩主の居室のすぐ後ろに4.5間×7.0間ほどの建物がある。入り側を廻した12畳と8畳のニ間という間取りである。後代の絵図にはこの建物は書き込まれておらず、取り壊されたのであろうか。平和が訪れた時代不要の建物となったのか、どうも「奥」からお庭を望むにこの建物が邪魔をしているように思える。真実はいずこにあるのか、大変興味深い。
「大坂玉造ニ越中守屋敷有、奥方の仕置ニ地震の間と名付、八畳敷を拵、四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置、何時も大地震或火事ニ而も外へハ不出、地震間へ奥方御入候而火を付、焼死る佐(作)法に相定置・・・」
「四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置・・」という記述は、ガラシャ夫人に殉死した河喜多氏の資料によると、部屋の四方の鴨居に火薬を仕掛けて火を放ったとあるから、内容的には同様のもので信頼性の高い話ではないかと理解している。
通常「地震屋(間)」とは、地震に備えた構造を堅固にした建物と思いがちだが、「関原集」の記すところによると、いささか意を異にする。豊前入国後の忠利代、小倉城内に「地震の間」の建設にかかわる記述が、福岡県史「小倉細川藩」で伺うことが出来る。同様の目的をもっての事であったのだろうか。
肥後入国後はどうであったか。正室は江戸住まいが義務付けされているから、頭書のような性質の建物は必要ないと思われるが・・・実は存在していた。御花畑絵図の初期のものにこれが書かれている。藩主の居室のすぐ後ろに4.5間×7.0間ほどの建物がある。入り側を廻した12畳と8畳のニ間という間取りである。後代の絵図にはこの建物は書き込まれておらず、取り壊されたのであろうか。平和が訪れた時代不要の建物となったのか、どうも「奥」からお庭を望むにこの建物が邪魔をしているように思える。真実はいずこにあるのか、大変興味深い。