津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

町家と「長元記」著者・立石助兵衛

2010-10-21 14:13:48 | 歴史
 2009/6/25のブログで「長元記(長曽我部元親記)」の著者・立石助兵衛のことを書いた。
立石氏については細川家侍帳に、個人のお名前がいくつか見えるが先祖附は残されていない。過日本覺寺のお上人さまからメールを頂戴し、こちらが立石家の菩提寺であるとお教えいただいた。過去帳などは火災で無くされたそうだが、史料が熊本市の「歴史文書資料室」に残されているとのことであった。
(本覺寺・・法華本妙寺末寺、清正公ノ寵妾法号本覺院月心日圓大姉ノ為ニ、慶長年中建立之、開山日眞上人也、清正侯忠廣侯二代毎歳弐百俵納之・・)
           www.cam.hi-ho.ne.jp/s-uekawa

 この本覺寺のお隣が、細川九曜紋を寺紋とする安国寺である。
           orange.zero.jp/kkubota.bird/antaiheizan.htm
細川家の有力家臣のお墓がいくつもここにあるのだが、そのひとつが町家すなわち長曽我部氏の子孫のお墓がある。長曽我部氏の「ちょう」を「町」として「まち」氏と名乗り明治に至ったがその後複姓されている。

 町家(長曽我部氏)のお墓がある安国寺のお隣の本覚寺六角堂に、「長元記」の著者・立石助兵衛のお墓があるというのには、何かしら因縁めいたものを感じてしまう。

 文書の所在がはっきりしているとすっかり安心してしまい、熊本県立図書館所蔵の「上妻文庫」に所収されている「長元記」はまだコピーできていない。
そろそろ腰を上げずばなるまいと思っている。
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六丸(綱利)の後見

2010-10-21 10:18:03 | 歴史
 六丸(細川綱利)がわずか七歳で肥後五十四万石の襲封を許されたとき、その後見を命じられたのが豊前小倉藩主・小笠原忠真と阿波徳島藩主の蜂須賀忠英である。
小笠原忠真は小笠原秀政の二男、その妹・千代姫が綱利の祖父・細川忠利室、秀政の長女が蜂須賀忠英の父・至鎮の室という関係にある。
秀政・忠脩父子が関ヶ原で戦没したため、秀政の長女は家康の養女として至鎮に嫁ぎ、次女・千代姫は徳川秀忠養女として細川忠利に嫁いだ。
蜂須賀忠英は父同様小笠原家から正室を迎えている。忠脩が亡くなったため忠真の養女として忠英に嫁いでいる。

 細川家は小笠原家の血縁を通じて、この時期を支えられている。

寛永廿年(1643)生まれの綱利だが、慶安二年(1649)に没した祖母保壽院(千代姫)の記憶はのこっていただろうか。


        蜂須賀至鎮
              ∥----------忠英
小笠原秀政----+--●         ∥
          |            ∥
          +--忠脩----------●
          |
          +--忠真
          |
          |  細川忠利
          |    ∥------光尚---六丸(綱利)
          +--千代姫(保壽院) 
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