津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

正室なし・・子供21人

2010-10-06 12:28:44 | 歴史
 宣紀公のことだが何故か正室が居られない。
綱利の弟・利重(新田支藩祖)の二男(利武-)として延宝四年(1676)十一月廿日に生まれ、元禄十年(1697)新田5,000石を内分された。綱利は継嗣・吉利を、宝永三年(1706)四月廿五日に亡くしている(18歳)。その後は柳沢吉保の男子を養嗣子とするように画策するが、老中稲葉氏の反対を得て失敗に終わった。綱利が、利武を養子とするべく願い出るのは、宝永五年(1708)正月のことである。利武はそれまでにニ男ニ女を成しているのだが、皆夭折した。宣紀と称し従四位下に叙任されたのは翌六年(1709)四月のことである。この時期にでも正室を迎えられなかったかと疑問に思うのだが、次々と側室に子をなさ〆ている。五人の子が夭折している。十人目の子が後の宗孝であり、その後重賢を含め十人も息災に育った。最後の子・龍五郎(家老木村半平養子)は三歳で夭折している。
 
       養父  細川綱利
       実父  細川若狭守利重(新田支藩祖)
       生母  築山氏女 辨
       夫人 
        ※小野田太郎左衛門女 與幾(ヨノ)
            1 男子・竹之助(夭折・三歳)
            3 女子・亀(夭折・六歳)
            5 女子・春、名世(夭折・五歳)
            6 男子・萬次郎(夭折・一歳)
        ※鳥井氏女 際
            2 女子・蔵(夭折・六歳)
            4 男子・八三郎(夭折・六歳)
             8 女子・富(夭折・三歳)
           10 宗孝(七代)  
           12 禰々、喜和(宗対馬守義如室)
           14 照、三千、千代(安藤対馬守信尹室)
           21 男子・龍五郎(家老・木村半平豊持養子・夭折三歳)
        ※姓氏不詳
            7 女子・村(夭折・三歳)
        ※安野氏女 民
            9 女子・勝(夭折・三歳)
           11 八代、花(松平讃岐守頼恭室)
           17 衛世、悦(長岡助右衛門是福室)
           19 津與(小笠原備前長軌室)
           20 興彭(長岡図書興行・養子)
        ※岩瀬氏女 利加
           13 重賢(八代)
           15 豊、常、岑(織田山城守信舊室)
           18 幾、常、成、軌(細川大和守興里室)
        ※友成氏女 佐衛
           16 紀休

 これらの側室(?)たちがどの様な生活をしたのか、詳細は判らない。
享保五年(1720)十二月廿一日、宣紀は生母・高正院を新田藩から本家に引き取っている。これは実兄(新田藩二代藩主)利昌が正徳五年(1715)に亡くなった事によるものだろうか。理由が良くわからないが時間がたちすぎている。この人とて正室ではなかったから、上々様としての扱いではなかったのだろう。翌六年七月の末に亡くなった。
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有吉家文書「年中行事抜粋」(八)同時習館江御入之式 - 2

2010-10-06 09:20:52 | 有吉家文書

■同(御着座後)時習館江御入之式・2


          一、夫より諸師役被召出候間御座所南
             側二枚御襖取除ニ相成此儀ニ不拘致
             座着候上ニて講堂之内ニ入左之御襖より
              一間之程を左後ニ取東北之隅向座着
              例之御座所江御出坐之時平伏夫より
              頭を上居候得ハ左之通
              何連も出タ歟
             右之通被遊御意候間御取合左
             之通
             御意之趣何レも難有仕合ニ奉存候
             右之通御前之方ニ東向申上平伏仕
             候得者御襖立候間元之座ニ下り候且又
             見習之人ハ初坐着之侭堂中江者
             不進平伏等之様子同席ニ応可申事
              但夫より詰間へ罷越候間合無之候尤
              御用人江懸会御程ニ應可申事
             付紙
              文化九年御入之節御用人江懸合
              候處師役中江御意ハ不被下
              候筈之處其節ハ臨時 思召ニて
              御意被下候由御定不被下候得者何
              れも被召出難有奉存段御取合
              申上候右之通候間同十一年御入之節
              平井典助江懸会候得ハ師役之儀ニ付
              毎御意被下置旨柏原新左衛門奉
              窺之段典助被申達候間以来其通
              可心得事
              御奉行学校御目附ハ
              御前を下諸師役召出之節ハ西外
              之御入側ニ坐着之事
          一、御供宣ク申上之節初之通御居間御
             縁伝イ御敷出しニ罷出候御縁より被遊
             御下候節より次第ニ平伏御一ト通
             御意有之御三拝儀御駕之戸立
             候而頭を上奉見送御小姓頭御用人等
             一同ニ御辞儀退去詰間へ罷越候事
             御立役ニ最前ニてハ役方詰間へ罷出
             恐悦被申上候事
          一、此御式之節ハ講尺不被仰付由之
             事
              但御社参之節ハ当所ニて御長袴
              被召替候と相見候事
          一、右之御式相済御帰殿之節ハ、平服
             二て御出迎諸事例之通尤御次ハ麻
             上下ニて候得共御庭御社参被為在
             候付而之事之由、文化十一年六月郡
             九郎太郎より被申達候事
          一、今日御帰殿之上為伺御機嫌御備頭
             御留守居大頭出方有之候此節両御役
             詰間へ罷出陳行営御備頭銘々より兵
          一、右之通ニて相済御社参被為在
             候得者御帰殿前御花畑へ出仕之
             事
              但御社参之節ハ当所ニて御長袴
              被召替と相見候事
          一、右之御式相済御帰殿之節ハ平服
             二て御出迎諸事例之通尤御次ハ麻
             上下ニて候得共御庭御社参被為在
             候付而之事之由文化十一年六月郡
             九郎太郎より被申達候事
          一、今日御帰殿之上為伺御機嫌御備頭
             御留守居大頭出方有之候此節両御役
             詰間へ罷出陳行営御備頭銘々より兵粮積り
             大頭連名一同ニ御用番江達有之候尤
             箱ニ入封印ニて候事
              但志らへ方出来兼候得ハ其段内意
              有之追而差上ニ相成候様及差図
              候事
          一、右者請取佐弐役江相渡置近日中
             封之侭御直ニ差上候事

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