綱利の弟・利重(新田支藩祖)の二男(利武-)として延宝四年(1676)十一月廿日に生まれ、元禄十年(1697)新田5,000石を内分された。綱利は継嗣・吉利を、宝永三年(1706)四月廿五日に亡くしている(18歳)。その後は柳沢吉保の男子を養嗣子とするように画策するが、老中稲葉氏の反対を得て失敗に終わった。綱利が、利武を養子とするべく願い出るのは、宝永五年(1708)正月のことである。利武はそれまでにニ男ニ女を成しているのだが、皆夭折した。宣紀と称し従四位下に叙任されたのは翌六年(1709)四月のことである。この時期にでも正室を迎えられなかったかと疑問に思うのだが、次々と側室に子をなさ〆ている。五人の子が夭折している。十人目の子が後の宗孝であり、その後重賢を含め十人も息災に育った。最後の子・龍五郎(家老木村半平養子)は三歳で夭折している。
養父 細川綱利
実父 細川若狭守利重(新田支藩祖)
生母 築山氏女 辨
夫人
※小野田太郎左衛門女 與幾(ヨノ)
1 男子・竹之助(夭折・三歳)
3 女子・亀(夭折・六歳)
5 女子・春、名世(夭折・五歳)
6 男子・萬次郎(夭折・一歳)
※鳥井氏女 際
2 女子・蔵(夭折・六歳)
4 男子・八三郎(夭折・六歳)
8 女子・富(夭折・三歳)
10 宗孝(七代)
12 禰々、喜和(宗対馬守義如室)
14 照、三千、千代(安藤対馬守信尹室)
21 男子・龍五郎(家老・木村半平豊持養子・夭折三歳)
※姓氏不詳
7 女子・村(夭折・三歳)
※安野氏女 民
9 女子・勝(夭折・三歳)
11 八代、花(松平讃岐守頼恭室)
17 衛世、悦(長岡助右衛門是福室)
19 津與(小笠原備前長軌室)
20 興彭(長岡図書興行・養子)
※岩瀬氏女 利加
13 重賢(八代)
15 豊、常、岑(織田山城守信舊室)
18 幾、常、成、軌(細川大和守興里室)
※友成氏女 佐衛
16 紀休
これらの側室(?)たちがどの様な生活をしたのか、詳細は判らない。
享保五年(1720)十二月廿一日、宣紀は生母・高正院を新田藩から本家に引き取っている。これは実兄(新田藩二代藩主)利昌が正徳五年(1715)に亡くなった事によるものだろうか。理由が良くわからないが時間がたちすぎている。この人とて正室ではなかったから、上々様としての扱いではなかったのだろう。翌六年七月の末に亡くなった。