今日の熊本日日新聞は、里氏のお宅からハーマン号沈没事故の状況を絵師に画かせた絵が見つかったことを報じている。里家からは志馬之助が参加しているが、幸いにも生存期帰還した。新聞の内容については、「くまにちコム」を御覧いただきたい。里家については、我が「侍帳」においては次のようにご紹介している。
又作 加藤清正ニ仕
(加藤家侍帳 保々因幡与六百石 内参百石寛永弐年に加増)
四大夫 五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
御小姓組 五百石 分家・富岡家
寛永十六年頃 芦北郡奉行
細川光貞公宛行状(寛永十八年)五百石
杢之助(養子 実・宮崎伝四郎弟・九市郎) 別禄二百石
【細川光尚殉死】慶安二年十二月廿八日 廿四歳
於・泉岳寺 介錯・藤崎作右衛門
跡目之事慶安三年七月十一日六丸君より御家老中ニ被成下御印之覚書
里杢之助跡職之儀岩崎武兵衛せかれ杢之助甥之由候間、武兵衛二男
せかれ杢之助知行弐百石遣之候、家屋敷も見合可遣候事
(綿考輯録-巻65)
二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・杢之助
杢之助(養子 甥、実・岩崎武兵衛二男・兵四郎 )
三番丹羽亀丞組 二百石 (真源院様御代御侍名附)・・兵四郎
御側組外衆 弐百石 (寛文四年六月・御侍帳)・・兵四郎
二百石 貞享二年 八月十九日 知行被召上候 (※)
跡目二百石・然処故有之、御暇被下(貞享元年)
1、政之助 八人扶持、後妙解院五十回御忌(十三歳)ニ而二百石拝領
細川綱利公御書出(元禄三年)二百石
2、文太郎・正隆(養子 実・御郡医師高橋周庵嫡子) 二百石 御番方十番
屋敷・高麗門
3、杢之助(養子 実・政之助子)
4、市九郎
5、杢之助 二百石
6、又作(杢之助)
7、亀次郎(杢之助) 御番方十番・大河原次郎九郎組 二百石
8、志馬之助 二百石
明治二年正月三日、千葉川津沖にて乗艦ハーマン号沈没、救助生還す。
(肥後藩國事史料 巻九)