津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「江」のおかげ? にぎわう柏原織田家の地元

2011-03-10 15:50:48 | 歴史

 家紋や武家家伝でお馴染みの、「播磨屋」さんのメールマガジンが送られてきた。NHKの大河「江」の影響で、柏原織田家の地元がにぎわっているらしい。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E8%97%A9
柏原織田家といえば細川家とは縁の深い家である。

 織田信長の直系で一番近いのは、二男織田信雄の二男・高長の流れだとされる。高長が細川家家臣薮内匠政一(12、000石)の女婿として長岡主膳信友と名乗り、細川忠興の下にあって細川妙庵(幸隆)亡き後豊前竜王城を預けられていたという事実はあまり知られていない。綿孝輯録は、「織田信雄の二男也、豊前ニ御呼被成、藪内匠か壻ニ被成、妙庵主御卒去後竜王城御預被置候処、今度御立退(慶長十六年)、無程公儀ニ被召出、織田出雲守(一ニ出羽守)高長と改、従四位下侍従ニ叙任、弐万石被下候(以下略)大和松山藩初代藩主・・四代目以降柏原藩主」と記している。
 父信雄の遺領について、天童藩織田信昌と相続を争い細川忠利・前田利常の応援をうけて幕府の裁定を得て、大和松山の宇陀藩藩主となった。(31、000石)。高長・長頼・信武と続いたが、信武代に「宇陀崩れ」という家内の騒動で信武は自裁、嫡男信休が二万石減封されて丹波の柏原に転封される。その孫信旧(ノブヒサ)に細川宣紀の娘(岑姫)が嫁いだ。岑姫の兄・細川宗孝が江戸城中で誤って殺された事件では、この織田信旧が事件の処理に奔走したと伝えられる。残念ながら岑姫は24歳の若さで亡くなってている。くだって弘化年間宇土支藩11代立則の弟・泰三郎が柏原藩織田家養子に入った(信教)。残念ながら19歳の若さで亡くなった。
 じつはこの柏原藩は、元々は信長の弟信包が初代藩主で三代続いたが、無嗣断絶している。信包の嫡男信重は相続争いに敗れ、伊勢・林藩主となった(10,000石)。その室は管領斯波氏の末・津川義近の娘であり三男津田次郎左衛門(三十郎長相)は細川家臣となり三百石。同じく細川家臣の伯父・(義近二男)津川辰珍(1,200石)が三十郎に七百石を分知するという面白い出来事があった。 

 
                細川宣紀---+---宗孝===重賢                
                        |
                        +---重賢
                        |
                        +---岑姫   
               長岡主膳信友         ∥        宇土細川藩12代立則弟・泰三郎
 +--信長---信雄---高長・・・・・・・・・・・・・・・・信旧・・・・・・・・・・・・===信教
 |             ∥大和松山・宇陀藩初代藩主 丹波柏原藩・初代藩主    
 |      薮政一---女   
 |
 +--信秀---信包----+---------------信重
               |             ∥---津田十三郎長相
               |         +---女
               |         |
               |  斯波義銀---+---津川辰珍
               |
               +--信則(柏原藩)

ちなみに薮氏の先祖は薮伊賀守、織田信長に仕え伊勢で戦死した。その子政一(内匠)は「中村式部少輔一氏に仕、江州日野の内二千九百石領地、後九千石同伯耆守代様子有之致仕京都牢人頭 忠興豊前召寄壱万石、のち大隈(兄)知行二千石加増、都合壱万二千石 元和五年八月五日歿・八十一歳」

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再購入

2011-03-10 14:11:07 | 書籍・読書
孝明天皇と「一会桑」―幕末・維新の新視点 (文春新書)
 
    文藝春秋

 我が高祖父・上田久兵衛についていろいろ書き付けているが、京都での活躍の時代を知る上での大事な参考書である。4~5年前に購入したと思うのだが、行方知らずとなった。
狭い我が部屋のどこかにあるはずなのだが・・ない。あまりうろうろ探し回っていると、また奥方から文句が出そうなので、二冊目を購入することにした。新書は安価だから助かる。 

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司馬遼もどき

2011-03-10 08:39:15 | 徒然

 ここ数日寒の戻りの寒さが続き、外に出るのが億劫である。啓蟄は過ぎたが虫たちも迷惑な話ではある。散髪に行かなければならないのだが、これとて面倒でいささか伸び放題になった。寒くて昨日も出かけなかった。
 私は100%とは言わないがそれに近い白髪頭である。いまさら染める訳にも行かぬ白髪頭が、伸び放題になると「司馬遼もどき」になるのだ。「もどき」とは、以前出かけた折の床屋さんの言である。「司馬遼」とは、言わずもがなの司馬遼太郎氏のことなのだが、「おれはあんな穏やか面じゃあないからね」というと、鏡に映った私の顔をちらっと眺めて、・・・「そうですね」とのたまう。失礼なやつだ。

 そろそろ散髪に出かけようと思っているのだが、また言われそうな感じがする。
床屋を変えるのも大人気ないが、「もどき」もしゃくではないか。朝の洗面所で鏡をのぞきながら、どうしようかと思案中である。

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