津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

雑感・わたしの書生論

2011-03-20 20:54:17 | 徒然

 政治向きのことを色々書くのは、所詮書生論といわれそうだからやめにするが、政府のていたらくぶりに愕然としてしまう。枝野報道官(?)はなかなかよくやっているが、大臣官房は仙谷に乗っ取られたのかもしれない。自衛隊を「暴力装置」と理解している人物がいるかと思えば、時はよしとばかりに菅首相は防衛大学の卒業式で大いなる「敬意」を表した。なんだか良く判らん。

 決死の覚悟をして福島原発での注水作業その他に従事した人々を、外国では「福島の50人の侍」と称えている。侍は首相官邸には居ないのか。断られるのは判っているのに、自民党に声をかけて入閣を則したり・・・つまりは手詰まり状態に在る。
マニフェストを放棄して、災害復旧の予算を捻出するというのは、素人でも思い至ることで特段すごい見識とも思えない。「災害支援特別税」でもつくって、国民に「お願いします」と頭を下げたらどうか・・・。「財源論はあとで」とのたまう大臣がおられるが、すくなくとも岡田幹事長の発言のほうが正論だろう。菅さんも目をしょぼしょぼさせて随分お疲れのようだが、命を懸けておやりになることだ。

 TVをみているとイライラが募り、少々胃がもたれている。
鬱憤を晴らそうとすると所詮は書生論と相成る。

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おまんさまの文

2011-03-20 11:02:32 | 歴史

 災難とは自然災害のみならず、いろんな形で存在する。

 細川家の豊前入りは慶長5年の12月26日(新暦1601.1.12)だとされる。12月8日に丹後を出立したとされるが、この年は随分寒かったらしく雪が深く馬が凍えて難儀したと、加藤政右衛門家(金山下坊子孫)の家記に記されている。「御人数及難儀申候ニ付、金山下坊(田邊城籠城衆の一人)宅へ一日一夜御逗留、拾八疋之御馬火をたきあたヽめ申候、其上御通行之道筋三里之間をかきのけ、無御支御旅行遊され候・・・」とある。主だった人達が十八人馬に乗り、その他の人達は18日の間の数日を雪中行軍した事になる。

 一行が出立した後、有吉四郎右衛門立行の妻(まん)が、木付の陣に在る有吉家の重臣葛西彦四郎に宛てた九日付文書が残されている。そのまんは、ガラシャ夫人が生害した七月十七日の翌日男子を出産(有吉平吉--英貴)、翌十九日には産後の身ながら宮津をでて京都の天竜寺へと逃れた。下の文から身一つで逃れ数ヶ月を困窮の中で過ごしたことが判る。

       まつい殿の文とゝき申候 こんどはかつせんにて彦四郎てがらのよし承り候て
       せんじつ与太郎への九兵衛へのこゝろづけ申し候へようもなく候 御うれしさ
       かず/\にて候 又国がへとてやがて殿様御下りのよしに候 此の程われ
       /\も下り候て御うれしくぞんじ候へば又国がへと申し候まゝせはしさ申し候
       はんようもなく候 彦四郎おやたちものさとにあづけおきてわれ/\下りて候
       たいらへこされ候 孫右衛門おかあもえはまへあづけてこれもたひらへこされ
       こされ候てみな/\一ところへ居まゐらせ候まゝこゝろやすく候べく候 おかあ
       はかたびら一つにてふるはれ申し候 にやひのもの候はゞ米かしてかさせ候
       はゞきせ候はんと申し候へどもいまだうりかひもなきゆゑならず候 宮つまで
       のこしきよりはあさましきていにてまゐり候 われ/\もよろこび候てあくる日
       のらんにてまゐり候ゆゑわずらひ候てくし一具とりていで申さずかたびら一つ
       にてのき候へばふるきものを一つみなにきせ候へどもならず候 われ/\は
       さように候はんにもんめんにてよるのものをこしらへ候て京より下り候てきま
       ゐらせ候 にょうぼうどもにもぬのこ一つづつこしらへてきせ申すていにて参り
       候ほかはなく候 下り候へども米をさまり候はではん米さへならず候へてめい
       わく申し候 しゃく米どもはこび候てさはしさ御すもし候べく候 四郎右衛門殿
       へ御申し候て其の方よりしゃくせんかた御すまし候やうに候て給べし 又長次
       郎へ言伝申候 京にもふたりながらそくさいに候 かしく
             十二月九日                      まんより
               彦四郎殿
                   まゐる

 文中の四郎右衛門は、夫・立行、与太郎とあるのは嫡男のちの四郎右衛門興道である。この時期康政と名乗り初陣18歳位である。生まれたばかりの赤子は、有吉家中興の祖とも言うべき大人物に成長することになるのだが、この時期は困窮の母の懐にあったのであろう。

 

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