津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

熊本大学付属図書館貴重史料展「肥後の街道とその景観」展 PDF

2012-04-11 11:23:13 | 史料

熊本大学付属図書館のHPがリニューアルされている。
昨年残念ながら見逃した、第28回熊本大学付属図書館貴重史料展「肥後の街道とその景観」展の内容がPDF化されていた。

                  http://www2.lib.kumamoto-u.ac.jp/rare/pdf/028.pdf

その他過去の分も紹介されていて、見ごたえがある。どうぞご覧いただきたい。

                   http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/about/events/exhibitions

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駿河中納言忠長書状

2012-04-11 09:24:55 | 史料

寛永四年駿河中納言様より之御書 (熊本懸史料近世編第一・献上并音信部二 p169より)

          為今度駿府へ相越候祝儀御使者殊御太刀一腰
          馬代銀子百枚并小袖十給候遠路之處御懇意之
          段令祝著候恐々謹言
              十二月廿日     駿河中納言
                                忠長 判
                 細川越中守殿
                       御宿所 

 

ウィキペディアによる駿府に関する記述である。

慶長14年(1609年)12月12日、家康の10男・徳川頼宣が50万石で入封したことから、駿府藩が復活する。但し、頼宣は幼少の上、家康が尚も幕政を駿府城で執っていた事から、藩主とはいっても実際には権限はなかった。元和5年(1619年)7月19日、家康没後、頼宣は紀伊和歌山藩に移封され、駿府藩は廃藩となった。
寛永2年(1625年)1月11日、第3代将軍・徳川家光の弟・徳川忠長が駿河・遠江・甲斐等に55万石で封じられた事から、駿府藩が再び成立した。忠長は将軍後継を廻って兄、家光と争った経緯から家光とは不仲であり、更に寛永7年(1630年)には浅間神社神獣とされる猿を捕殺したり、寛永8年(1631年)には家臣侍女領民等を惨殺したりする等の乱行が目立った事から、5月29日に発狂したとして上野高崎藩蟄居の身となり、父の徳川秀忠没後の寛永9年(1632年)10月20日には兄によって改易された。この時、忠長の家臣の多くも連座により改易されている。そして寛永10年(1633年)12月6日、忠長は高崎で自害した。
忠長改易後、駿府藩は廃藩となり、以後は天領として江戸幕府直属の旗本駿府城代として赴任する駿河城番時代が続いた。

上記「寛永四年駿河中納言様より之御書」に於ける寛永四年の書き込みは些か不自然に思われる。寛永二年が妥当なところだろう。如何・・・・・

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