津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川子爵家・反故/一括

2012-04-19 16:49:24 | オークション

【細川子爵家・反故/一括】古文書 書簡 古本 熊本 掛軸 掛け軸   ただいま1,000円 あと二日

これはどうやら宇土細川家にかかわるもののようですね。これだけまとまって出てくると、お宝が眠っているかもしれません。

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熊本城内地震之間

2012-04-19 11:17:25 | 歴史

地震之間(屋)については過去何度もコメントした。唯一(?)残されている「彦根城地震之間」については、次のような報告書がある。
             http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/10504/1/ji0184009.pdf
このことからすると、地震之間とはこの当時の耐震建築(?)と考えるのが妥当なのだろう。

 しかしながら、細川家に於けるガラシャ夫人生害の際についての状況について「関原集」は次のように記している。 
「大坂玉造ニ越中守屋敷有、奥方の仕置ニ地震の間と名付、八畳敷を拵、四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置、何時も大地震或火事ニ而も外へハ不出、地震間へ奥方御入候而火を付、焼死る佐(作)法に相定置・・・」
「四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置・・」という記述は、ガラシャ夫人に殉死した河喜多氏の資料によると、部屋の四方の鴨居に火薬を仕掛けて火を放ったとあるから、内容的には同様のもので信頼性の高い話ではないかと理解している。
このように「関原集」の記すところによると、地震に対応した建築物以外の意味合いが伺われる。

 豊前入国後の忠利代、小倉城内に「地震の間」の建設にかかわる記述が、福岡県史「小倉細川藩」で伺うことが出来る。同様の目的をもっての事であったのだろうか。

 熊本でも藩主の居館「花畑邸」に於いて「地震之間」の存在を知ることが出来る間取図が残されている。
そして最近「熊本縣史料」の中に、忠利が地震之間の建設を思い立ったことをうかがわせる史料を見つけた。家臣杉山藤兵衛宛の書状の一部である。

                    熊本城本丸家多候故矢蔵ニ無構中の家をのけ我々不下前ニ
                    地震屋を一ツ立候へと申付候家之儀ニ候得とも爰元御年寄衆
                    へ其段御物語申候留守之普請候間其元御両人も何事かと思
                    召候ハん間此由をも申入候其心得可仕候事

 この時期になると、藩主の正室は江戸藩邸にある。戦国期のガラシャ夫人の時代とは異なり、地震之間の用途も其の名の如く地震に対応した建物と考えるべきなのだろうか。 

              

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