元和元年江戸の内記(忠利)から「城割」についての情報が入ると、書状を受け取った忠興は即日実行に移つている。(熊本縣史料近世編一・p666)
「去廿日之書状二通披見候」と頭書がある、忠興の後(閏)六月二十九日の内記宛の書状である。
一、諸国城割之御觸状今日廿九到来候 則門司之城今日より
わらせ申候 残城〃使之参著次第わり候次第わり候へとか
たく申付遣候 此由御奉行衆・金地院・上州江可被申候事
一、中津之儀大炊殿江談合之由尤ニ候 濟候ヘハ能濟候ハて
も不苦事
一、城わりのもやう被申越候 千万ニ一ツ前のことく城を仕候へ
と被仰出候共御侘言申一城ニて居可申と存候間こんりんざ
いわらせ申候事
城割に係るものだけを抜粋記してみたが、忠興の対応の早さにびっくりさせられるし、中津城については廃城もやむなしという考えがあったことが判る。
一国一城令は慶長20年閏6月13日(1615)に発せられている。(元和改元七月十三日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%9F%8E%E4%BB%A4
肥後国に於いても麦島城(後、地震倒壊)が残され、後の肥後細川藩における一国二城へつながっていく。
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今日は史談会の4月の例会、花岡先生の講演史料は奇しくも城割に関するものであった。