津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

俳句書簡に見る正岡子規の教え

2012-04-17 09:36:18 | 展覧会

講座チラシ 以下熊本近代文学館HPより引用

1 主催 熊本近代文学館 熊本県立図書館

2 趣旨 寄贈や購入により、新たに収蔵した資料を、展示会を通じて公開し、研究などの活用につながるように紹介。

3 期間 平成24年4月18日(水)~6月18日(月)

4 会場 熊本近代文学館 正面展示コーナー 第一展示室

5 入場料 無料

6 展示内容
(1)正岡子規 渋川玄耳宛
  夏目漱石が熊本時代に作っていた俳句結社・紫溟吟社のメンバー、渋川玄耳と正岡子規との関係がわかる資料。
(2)蔵原伸二郎宛及び関係書簡・葉書
  石坂洋次郎、伊藤真吉、井伏鱒二ら50名以上の文化人等からの書簡。蔵原伸二郎が交流した人々がうかがえる資料。
(3)徳永直自筆葉書 西山安雄宛 葉書二通
  昭和27年6月16日付 妻の病状について詳しく伝え、西山の考えを求めている資料
(4)長田秀雄草稿「燈台鬼」 400字詰め原稿用紙25枚
  少年少女劇 雑誌「赤い鳥」大正10年10月号、11月号に掲載
(5)乾信一郎草稿「野鳥交友記」
(6)昭和初期映画パンフレット

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元和四年の江戸藩邸

2012-04-17 09:12:16 | 歴史

 忠興の生母光壽院は沼田光兼の女、俗名麝香である。苦楽を共に過してきた夫藤孝が、慶長十五年逝去(77)する。
翌十六年(1611)光壽院は証人として江戸へ登ることと成る。
綿考輯録は、忠興の母を気遣う手紙(忠利宛)を紹介している。

 慶長十九年(1614)十月
   「母にて候人湯治之儀ゆめゝゝあるへからす候、たとひはや湯へ御入候
    とも、此ふミもたせ遣、急上り候やうニ被申へく候事」
    光寿院が風呂に入ることを止めるべく指示している。煩っていたのだろうか。
 元和四年(1618)閏三月
    眼病を煩った忠興は、その治療に四苦八苦しているが、
   「母にて候人へハ、はや目本復にて頓而下候由申入候間、可被得其意候事」
    と便りしている。
 そして、三ヵ月後「御煩被成候」て、七月廿六日卒去するのである。七十五歳。
最晩年の七年間を、証人として江戸で暮らしたことになる。
忠利への便りの中にさりげなく書かれているものだが、老いた母へのいたわりの気持ちが満ち溢れている。

元和四年十月十七日付けの忠興の内記(忠利)宛て書状には、光壽院死後の江戸藩邸内の動きが記されている。

   一、我々下候者今迄光壽院殿御座候所江其方被移度候由尤ニ候 就夫
      光壽院殿被召仕候女房衆別之家へうつし申度之由候 定而古書院之
      事たるへく候 それハ我々居候所江近く候間勘解由むすめ居候近所之
      長屋へをしこミをかるへく候 我々下候而から五六日之内ニいつれも可
      上候間少之内之事ニ候事
   一、光壽院殿御道具なとも長屋之三階へ上をかるへく候事

急には史料を取り出せないが、これ以前藩邸内に於いて内記(忠利)の部屋を確保するため、忠興は大いに頭を痛めている。
このような具体的な文書に接すると臨場感がひときわである。
(勘解由むすめとは共に江戸証人となった、沼田勘解由左衛門延元女於多阿さまの事であろう。後平野九郎右衛門室。) 


 


 




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