「久武兄弟御長柄之者討果候事」と題された無礼討ちの記録がある。宮村典太編著「吹奇与勢」所収の「(草野)潜渓先生書簡」である。
明和三年七月十日之夜五ツ時分、坪井報恩寺観音参群
集之中ニ、竹部出屋敷居住する久武武助嫡子権之助十五
才、次男金吾十三才なるか参利子に、御長柄之者銀拵之
脇差さしたる若者、観音堂之せく中ニ而、権之助ニ除
ヨト云しを、権之助慮外ものト云けれハ、右之もの権之助を
押付るを金吾か後江より若ものをさしけれハ、若者はつ
と云て手を放ス處を権之助抜打ニ眉間を切、地蔵堂
之前ニ倒れるをとゝめさしたり、久武も兼而貧窮故、子
供之衣類もいやしく見へける故、若者あなとりたると聞
ゆる由、然れは花好(華美?)をこのむハ驕りなれ共、士は士之
相應之衣類もあるへき事也、服ハ身の章といへること能々
心得へし、及不及由礼ならねハならぬる也、することを得
すしてするも悪し、することを得てせさるも悪事なり
人多く集る處二ハ同道なしニ不可往と云事、退は老人之翁也
森崎小左衛門咄二、始権之助刀を抜処を若者柄を取たる故、不
得止脇差を抜シテ又手ヲトメタルトキ、左之手にて脇差ニ而
切付けれハ権之助がエリ二喰付ハナサス処を弟刀二て首をサシテハナス
時二権之助起挙り切たるよし
同に居る
上田宇助組、久武兵助父子三人宇助宅ニ而頃日之儀始末宜敷
段、御家老中より称美、兵助兼而家訓よろしく被存候由、申渡
久武家の家祖は、長曽我部元親の家老職を勤めた久武蔵之助親直である。加藤清正に随身し、加藤家没落後刻をへて細川家に仕えた。
此処に登場する権之助は後熊本を代表する俳人として名をなした久武綺石である。弟・金吾は200石堀田家の養嗣子となった。
先ごろ「手討達之扣」なる文書のなかに、この事件の顛末を知る一文を見つけた。
明和六年七月
上田夘助組
久武兵助嫡子
久武権之助
右同人二男
久武金吾
右両人儀一昨晩報恩寺於寺内寺本無右衛門
支配之御長柄組新左衛門と申者■々通云慮
外之躰難■通兄弟ニ而討果申候段相達申し候
依之兄弟共ニ先相慎兵助儀心を付候様申聞
置昨日右之趣御奉行所江罷出相達申し候処兵助
并ニ子供慎居候ニ不及候段御奉行所より申来候事
七月十二日
上田夘助組久武兵助忰共此間於報恩寺御長柄
之者討果候仕形年齢ニ者精悍敷儀共有之候
畢竟平日教育宜敷故と被存候以後共ニ
心を附教育可仕旨兵助可申聞旨御家老間於
列座助右衛門殿被申聞候間私宅ニおゐて兵助
江右之趣申渡候事
七月
この久武氏は我が家ともいささかの繋がりがあり、五代目室が久武氏である。六代目又之允の弟・清太郎がT家の養子となり嫡子・清四郎に嫁いだのが堀田家を継いだ金吾の娘・為である。そのT家は母の実家であり「お為様」は母の大伯母となり、私は二重にDNAを受け継いでいる。金吾殿の血が私にも流れている。
久武綺石(権之助)に次のような句がある。何を忘れるなと言っているのか・・・ 事件のことか・・・・
此こゝろわすれな人はわすれ雪