津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

加藤家御改易之節之事(六)・二

2012-04-26 18:54:52 | 歴史

  態以飛脚申入候
一、御上使衆近々可為御着と察入候事
一、事之外日てりにて候間中國路舟はた一切水御座有間敷
  候 人馬共ニ事之外成御人数にて候間先様中國路へ被仰付
  ため水をくみため置候様ニ可然存候 我等共上下にさへ所
  により冬も水きれ申候
一、御舟のりまへ之儀不及申候へ共只今者風も静ニ御座候
  當年は年ふるく候条いつもより風早立可申候間御舟数一度
  ニ御出舟候ハゝ大事之儀候間被成其御分別御相談尤候室
  なと廣ミなとへ御座候へとも舟五百艘ならてハ懸り不申
  候 其外ハ少完之舟懸りにて御座候
一、頭之御衆御揃候而御用之儀も御座候ハゝ被仰合舟数す
  くなく御一所ニ御出船可被成儀と存候御供舟多ク候ハゝ
  是又ミなと無御座候条気遣存候事
一、肥後之儀切々左右を承候 御諚次第城渡可申とて掃除
  なと仕所々番をも引申由度々申来候加様ニ無御座候而不
  叶儀候条申迄も無御座候
一、我等國之道筋大方ハ御用かけさる様ニはや申付候
  得とも田舎之儀御座候条存儘ニ無御座候迷惑仕候隣國も
  可為此分と存候事
一、右之段々不及申様ニ御座候へ共御事多候状結句加様之
  儀ニハ御失念も可有御座与存手前之儀不憚如斯候恐惶謹
  言
     六月廿日
         久因幡様
            人々御中

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   肥後之ものハ大方法躰仕専荷をのけ申由其上四方之番
   も引申中/\楯籠之覚悟無御座候可被成其御心得候事
一、鷹之儀下々のハはなし申候肥後殿のハ定而年寄共参候
  て左様之埒明可申由候 され共人を遣置申候只今鳥屋半に
  も不成儀ニ候へともさのミ偽者御座有間敷候間いつれの
  道にも随分調候様ニ仕せめての御慰ニ成候様ニと存候可
  御心安候恐惶謹言
     六月廿日
         戸左門様
            人々御中 

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柳川小路と腹赤の立花千代

2012-04-26 07:30:59 | 歴史

豊後路は熊本城から北へまっすぐ伸びている。その途中に宇土小路・山鹿小路といった一角がある。
加藤清正が小西行長(宇土)、立花宗茂(柳川)等の家臣を受け入れ住まわせた所である。立花家は改易となった大名として、唯一復活した家として知られる。唯一というと今ひとつあって、立花道雪は娘である千代に其の跡目を継がせたのである。そして宗茂を婿として迎えた。
そんな中柳川・立花家は改易となる。先に記したごとく、家臣は加藤清正に託された。千代も同然であるが後に県北玉名の地に屋敷を構えた。
そして大名家として復活することを知らないまま、改易から二年後この地で亡くなった。長洲町腹赤に「ぼたもちさん」と称して親しまれている千代のお墓がある。
何故このような形になったのか、不思議の極みである。
                  http://www.muneshige.com/place/botamochi.html

                     立花千代 千代像

細川家と立花家の関係は大変良好である。忠興の弟・興元の継室は立花宗茂の養女(妹・高橋紹運女)である。
                 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82


柳川小路に在った柳川衆にとっては、立花家の再興は天にも昇るような慶事であったろう。
今静かなたたずまいを見せるこの界隈に、あるとき大歓声が起こったことを知る人は少なかろう。
改易(慶長五年)から二十年を経た元和六年(1620)のことである。 

ちなみに千代のお墓がある長洲町腹赤とは、熊襲退治の折に景行天皇に「腹赤(はらか)=にべ」を献上した場所とされる。

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