津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

松山主水のこと (ニ)

2012-04-16 20:03:45 | 歴史

 先に「松山主水のこと」を書いた。 2012-04-14 21:00:06
この主水又の名を源之丞ともいう。一時期忠興が目をかけた人物であっただけに、彼の不届きな行いは許せないものがあったろう。

寛永八年閏二月廿二日付三齋の書状の追書に次のようにある。(熊本縣史 近世偏一・p362)

        追而申候戸田流之兵法遣候松山源丞とやらん申者小倉
        ニ居候 よひよせ小姓共ニけいこさせ申度候間小倉留守
        居へ之状一ツ可給候 持遣よびよせ可申候以上
              越中殿
                 返事

 

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幽齋宛信長感状

2012-04-16 17:48:21 | 歴史

 いつの頃のものか判然としない忠利が魚住与助に宛てた次のような書状があるが、この内容はちょっと面白い。
                                                    (熊本縣史料・近世偏一・p581)
   就歳暮之御祝儀申上十二月廿五日之御返書致拝受候
(一つ書略)
一、幽齋様へ信長より被致進候御感状之写此見申候 加様之儀我等も
  不存候つる尤達上聞間敷候 諸人連顕斗のミと可存候 心外之至御
  座候 然者彼御感状之本書ハ休齋ニ御座候由承候 其儘御座候ハヽ
  我等方へ給候へかし 事之次而ニ何もへ為物語御座候間被仰請被
  下候様ニ奉存候 加様之事写斗にてハ何も不致承引物ニ御座候間
  本書参候ハヽ江戸江持参仕度奉存候
(一つ書略)                 恐々謹言
        正月廿三日                (忠利)
              魚住与助殿

  細川幽齋に宛てた信長の感状があることを将軍家がご存知であり、見たいとでも仰せ出されたのだろうか・・・
  本書は休齋の所にあると聞くがそのままあるだろうか、あれば自分に給わりたいというのである。
  写しではなく本物を持参しなければまずいだろうという訳である。

  魚住与助とは細川忠隆の家臣である。実質京住まいの忠隆に宛てたものであろう。
  ところが文面には休齋とある。忠利とは余り仲がよくなかった叔父・孝之のことである。
  これは休無(忠隆)と休齋を間違えているのではないか・・・・・
  これが現在細川家に残るどの書面であるのか確認できないが、幽齋の保護の下京都に住まいしていた忠隆が所持していた可能性が高い。

  それにしても忠利の素直なぼやきが書面に見えてなかなか面白い文面である。

  ちなみに魚住与助以下忠隆附の幾人かは、忠興・忠隆が決別後初めて対面した折本藩召出しの話が為されている。(細川忠雄家記)
  与兵衛(加賀二男)  岐阜戦功吟味--与一郎様御意御傍ニ居申候衆(綿考輯録・巻十四)
                魚住与助 後休無様(与一郎・細川忠隆)二而与兵衛と云、
                        右衛門兵衛か二男なり
                加賀二子与兵衛休無様へ被成御附休無様より御知行三百石被下候
                                             (綿考輯禄・巻十五) 

 

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『続・加藤清正「妻子」の研究 』 について

2012-04-16 11:00:09 | 新聞

 水野勝之・福田正秀氏共著の『続・加藤清正「妻子」の研究 』 について、熊本日日新聞が『読書欄』で紹介している。
初編・続編を通じて真実の清正像が浮かび上がってきた。誤った過去の認識が研究者や出版界などで序々に修正されていくことだと思われるが、講談本的な思い込みの払拭には長い時間を必要とするのであろう。いまだ未見の各位には必読をお勧めする。 

 

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御恵贈御礼

2012-04-16 10:51:23 | 書籍・読書

 筑前黒田藩における「乙丑の獄」は、明治維新のわずか二年前に勤皇派の人々を大弾圧し、家老加藤司書を始めとする七名が切腹、十五名が斬首、その他望東尼など百八十余名が流罪などの罪を得た。後に藩主黒田長溥が自らの不明を恥じたとされる、黒田藩が明治維新に乗り遅れた痛恨事件であった。
この中に当家と同姓S家の某も含まれ、流罪の憂き目に会っている。

 この書籍をご恵贈給わったのは、この加藤司書の菩提寺・節信院様である。ある方を通じての事であるが心から御礼申し上げる。
節信院とは加藤家の祖・加藤又左衛門重徳(有岡城に於いて黒田如水を助け出した人物)の法号に由来している。

 熊本に於いての明治維新を思うとき、いわゆる実学党の働きが特筆されるが、特段藩内に於いて血が流れることはなかった。
小楠自身が逼塞のうちに好機が到来し、一党が日の目を見たといっても過言ではない。
熊本における研究者の多くは、「熊本の維新は明治三年にやってきた」という一言を引用し、旧藩庁の体制を非難する。
薩長土肥のような倒幕という過激な手法ではなかったものの、朝廷への関わりは積極的であった。
そういう意味においては黒田藩に於ける維新は、多くの勤皇志士の犠牲があっても過酷な状況の中で新体制からは黙視され続けた。
                http://www10.plala.or.jp/dazaifu/fmmain1ishin.html

我が家の遠祖は磯部氏であるが、二代目が母方のS氏を名乗り現在に至っている。
S氏を調べようと史料を探し回ったが、福岡市立博物館にS家文書があり、この中にいまだ未見の出自に係る史料があるらしい。
そしてその中に野村望東尼に係る資料が含まれている。どういうわけであろうか?

遠島流罪の同族があり、望東尼とも何らかの関係が見受けられることから、この著作の御恵贈は私にとってはまことに意義深いものがある。 



  

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