いつの頃のものか判然としない忠利が魚住与助に宛てた次のような書状があるが、この内容はちょっと面白い。
(熊本縣史料・近世偏一・p581)
就歳暮之御祝儀申上十二月廿五日之御返書致拝受候
(一つ書略)
一、幽齋様へ信長より被致進候御感状之写此見申候 加様之儀我等も
不存候つる尤達上聞間敷候 諸人連顕斗のミと可存候 心外之至御
座候 然者彼御感状之本書ハ休齋ニ御座候由承候 其儘御座候ハヽ
我等方へ給候へかし 事之次而ニ何もへ為物語御座候間被仰請被
下候様ニ奉存候 加様之事写斗にてハ何も不致承引物ニ御座候間
本書参候ハヽ江戸江持参仕度奉存候
(一つ書略) 恐々謹言
正月廿三日 (忠利)
魚住与助殿
細川幽齋に宛てた信長の感状があることを将軍家がご存知であり、見たいとでも仰せ出されたのだろうか・・・
本書は休齋の所にあると聞くがそのままあるだろうか、あれば自分に給わりたいというのである。
写しではなく本物を持参しなければまずいだろうという訳である。
魚住与助とは細川忠隆の家臣である。実質京住まいの忠隆に宛てたものであろう。
ところが文面には休齋とある。忠利とは余り仲がよくなかった叔父・孝之のことである。
これは休無(忠隆)と休齋を間違えているのではないか・・・・・
これが現在細川家に残るどの書面であるのか確認できないが、幽齋の保護の下京都に住まいしていた忠隆が所持していた可能性が高い。
それにしても忠利の素直なぼやきが書面に見えてなかなか面白い文面である。
ちなみに魚住与助以下忠隆附の幾人かは、忠興・忠隆が決別後初めて対面した折本藩召出しの話が為されている。(細川忠雄家記)
与兵衛(加賀二男) 岐阜戦功吟味--与一郎様御意御傍ニ居申候衆(綿考輯録・巻十四)
魚住与助 後休無様(与一郎・細川忠隆)二而与兵衛と云、
右衛門兵衛か二男なり
加賀二子与兵衛休無様へ被成御附休無様より御知行三百石被下候
(綿考輯禄・巻十五)