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あと一週間ですけど
ある方から安國寺蔵の明智氏に関する読み下しの依頼を受けている。
以前安國寺にお邪魔をして明智氏関係文書を拝見した。その折写真撮影のお許しを得て次のものを撮影した。
これらは永青文庫(北岡文書)においても、その存在が知られていたところであった。
1、明智系圖家譜并系啚(イ)
喜多村系図(ロ) 表紙には左のように記されているが、本来は二つのものを合冊したものと思われる。
後に(ロ)が存在しないことに気がついた。
2、志岐系図 予期しない写真撮影のお許しを得てのことであったので、照明など満足な状態ではなくでなく映りが悪く
判読不明の部分が多い。
(1)については有り難いことに(イ)(ロ)の全文を書写したものが上妻文庫(秉燭雑録)に存在していた。
ここで重要とされるのは、(イ)光秀の末子内治麻呂が母方の喜多村氏の養子となったことが記されており、喜多村系図(ロ)に同様の記載がある事である。
前者は寛永八年辛未六月十有三日日付で、これも光秀の子とされる妙心寺塔頭・玄琳なる人物が著し、喜多村弥平兵衛に宛てたものである。
後者は古く、天正十一年癸未暦九月十八日とあり、宛先を並列に大僧正傳廓智蔵 喜多村源馬殿と記している。この源馬こそが明智内智麻呂である。
内治麻呂=源馬=弥平兵衛であることが判り、この時代の異なる二つの系図に同一人物の履歴が同様内容で記されている事がわかる。
「平家物語を熱く語る」というサイトに「明智系図」という次のようなものがある。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100338_63.html
この内容を見ると(ロ)と同様内容について論じられているようだが、安國寺のものと同じなのかは不明である。
歴史群像シリーズ「戦国」セレクション 俊英明智光秀 「明智系図と喜多村家」所載のものであるらしい。
(2)は志岐系図としているが、「清和源姓美濃國住土岐家之一族 明智氏血脉山岸家相傳系圖書抜萃」という書き出しで始まっている。
この中に晴光なる光秀の子が登場している。この人物が晩年出家し玄琳和尚となったとしている。
そしてこの文書においての出色はガラシャ夫人に関する記述である。
丹後國和佐郡田邊城主
一女子 細川越中守忠興室 幼名春子後ニ於玉ノ方ト云
永禄七年正月十一日生母ハ牧ノ方也天正七年二月廿六日忠興ニ嫁ス
慶長五年七月十七日於大坂自害ス 年三十八
これら三つの文書に共通するのが玄琳和尚という人物である。そしてこれらの文書がどういう経緯で安國寺にもたらせたのか現況不明である。
安國寺には今ひとつ「明智光秀公家譜覚書」という文書が存在するらしい。
これは『歴史街道』平成七年三月号掲載の桜田晋也氏の「明智光秀-新資料の発見」でうかがうことが出来る。
明智氏の一族である細川家家臣三宅氏から収められたものであるらしい。三宅家においては明智氏について口を開かれることはない。
この覚書の存在は三宅家を通じての真実を表している資料だと思われる。いつの日か拝見したいものだと思っている。