津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

祝・政令指定都市移行」

2012-04-01 07:40:01 | 熊本

 熊本市は本日20番目の政令指定都市となりました。「祝」です~~~~

熊本日々新聞から  http://kumanichi.com/news/local/main/20120401001.shtml

街中ではいろいろ祝賀行事が行われているようですが、わが「東区」はいつもとまったく同じ(?)です。
新しく出来た区役所は明日二日より業務開始、一度出かけてみようと思いますが差し当って用もありませんけど・・・・・・・・ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ知らなんだ・・・

2012-04-01 07:33:48 | 歴史

 中公文庫の熊倉功夫著「後水尾天皇」を読んでいたら、朝山意林庵が後光明天皇に招聘されたことが記されている。私は細川綱利の陽明学徒追放よって細川家を離れた朝山次郎左衛門の先祖が、朝山意林庵の弟・齊助であることは承知していたが、意林庵がこの様な大人物であることは知らなかった。

【朝山意林庵】 あさやま-いりんあん  

■デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

1589-1664 江戸時代前期儒者
天正(てんしょう)17年9月8日生まれ。朝山日乗の孫。出家して京都五山の僧に教えをうける。豊前(ぶぜん)小倉藩(福岡県)藩主の細川忠利、駿河(するが)(静岡県)府中藩主の徳川忠長につかえた。この間朝鮮使節李文長に朱子学をまなぶ。承応(じょうおう)2年後光明天皇に「中庸」を講義した。寛文4年9月21日死去。76歳。京都出身。名は守愚。字(あざな)は藤丸。法名は素心。著作に「清水物語」など。
格言など】道理なる法度は立つ物にて候う。無理なる法度は立たぬ物にて候う(「清水物語」)

朝日日本歴史人物事典の解説

生年: 天正17.9.8 (1589.10.17) 
没年: 寛文4.9.21 (1664.11.8) 
江戸時代前期の儒者。名は素心,意林庵は号。初め仏門に学び僧となるが、のちに儒学に転じて朱子学を奉じた。細川忠利や徳川忠長に仕えたが寛永8(1631)年の帰京後は出仕しなかった。学殖の評価は高く、処士(浪人)の身で承応2(1653)年2月2日に参内して後光明天皇に『中庸』を進講した。詩文集は伝わらず、小瀬甫庵『太閤記』の跋、『わらんべ草』の序などだけが残る。仮名草子『清水物語』(1638)は彼の作とされているが、確証はない。三浦周行「後光明天皇の御好学と朝山意林庵」(『史学雑誌』23巻4号) 

さらに調べると、意林庵の祖父は朝山日乗であるという。信長の面前でルイス・フロイスロレンソ了斎と宗教論をたたかわせた僧日乗のことであった。
              http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%B1%B1%E6%97%A5%E4%B9%97
              
          九条家諸大夫朝山家 http://iwarehiko.web.fc2.com/page087.html

ああ知らなかった、知らなかった。まずは三浦周行氏の論考を読まなければならないし、いろいろ勉強することが出てきてオロオロである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 朝(浅)山亀太郎   (南東43-13)
    1、斉助・景吉 
       原城にて武功之面々御褒美被下候 寛永十五年九月朔日 千石加増
             (1)側小姓・御扈従役歟 五百石 (於豊前小倉御侍帳)・・斉 
             (2)御児小姓并御伽衆共 五百石 (肥後御入国宿割帳)
             (3)御詰衆 弐千八百弐拾石一斗三升 (真源院様御代御侍名附)
             (4)二千八百二拾二石           (真源院様御代御侍免撫帳)
             (5)御小姓頭    同上
     2、次郎左衛門(養子・斉助長兄幸綱の孫) 
             (1)有吉頼母允組 御小姓頭 弐千八百拾石余 (寛文四年六月・御侍帳)・・次郎左衛門
             (2)寛文九年十一月御暇遺候 () 陽明学徒追放による
               寛文九年十月七日 御暇  (
           寛文元年八月~寛文九年(御暇) 小姓頭  讀史総覧より   
           朝山次郎左衛門 名は幸和、自全と号す。年三十六にして致仕し、洛西嵯峨に隠棲す。
                      篤く聖学を信じ、就中王陽明良知の学を尚べり。
                      天和二年四月十二日歿す。年四十九。

    3、斎之助(次郎左衛門子主膳の子・景隆) 細川斉茲公御書出(天明八年)百五拾石
         朝山静全 名は景隆、斉之助と称す。藩に仕へ京都留守居役を勤む。
                  文化三年九月歿す年九十三。
          参考:朝山斎之助覚書(上妻文庫-144)(雑撰録-巻19 一名見聞雑記)
          参考:肥後畸人伝・先哲偉蹟拾遺

    4、恩地(後・斎之助)   百五十石
    5、数(養子 後・斎之助)  
                 
細川斎護公御書出(文政九年)百石
    6、亀太郎    下間求馬組御番方二番組 百五十石

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする