山本博文氏の「参勤交代」や、根岸茂夫氏の「大名行列を解剖する・江戸の人材派遣」を読んでいる。
山本氏の解説を引用すると、「参勤」とは江戸幕府の将軍に拝謁するため江戸に出てくることを言い。東西の大名が交互に江戸に参府することから「参勤交代」という とある。 将軍家から領地をあたえられた大名は、服属の意志の表明として「参勤」をし、登城して将軍に拝謁することが服属の儀礼である。
東国大名・西国大名が隔年に交代して参勤するという制度は元和三・四年の頃とされる。この時期はいまだ證人(人質)制度が存在し、藩の重要人物はそれぞれ江戸へ證人を送っている。早い時期の證人としては、慶長五年の正月に忠利が江戸へ送られている。前田利家夫人芳春院(おまつ)等もこの時期である。後には各藩の江戸屋敷が整備されると、藩主夫人は江戸住まいが求められた。忠利夫人・保壽院が領国豊前をはなれるのは、元和九年十月十四日であり、その後豊前を訪れることはなく、又新たな領地肥後の地を見ることもなかった。
参勤交代は膨大な人数を必要とする。正保二年の光尚の参勤の時は、知行取149人・同下人1,268人・切米取1,305人、計2,720人であった。(山本氏著より) 。父・忠利は寛永十一年、改革案を上げている。人数の削減や出発時期の変更などについてである。後者は武家奉公人の出替り時期が二月であるため、出発は三月以降を願い、これは武家諸法度に於いて明文化された。
根岸氏の「江戸の人材派遣」によると、大名は国許からの人数を削減し、江戸に入る時渡り奉公人をやとって人数の辻褄を合わせたという。
これらが組織化され発言力をもち、一方では無頼化し幕府の規制も及ばなかったらしい。幕府の役人でさえ、こういう人たちの世話をうけて体裁を整えたというから、何をかいわんやである。
地元の熊本日日新聞社が発行している「すぱいす」というタウン紙があるが、ここで松寿庵先生と歴女が対話を通じて、歴史を面白おかしく紹介している。松寿庵先生とは、元熊本大学教授の松本寿三郎先生のことである。
ここでちょっと不自然な文章があり、少々首をかしげている。「江戸がホームで肥後はアウエー」参勤がすめば「国元へ単身赴任」
国元がホームで江戸がアウエーでしょう。江戸から見れば夫人をおいて国元へ帰るのだから、単身赴任は判らぬではないが・・・ちょっと不自然。
みなさんどう思われますか。