津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

中秋の名月

2013-09-19 22:46:08 | 徒然

                   
                                 月天心貧しき町を通りけり    蕪村

 今日のような日は、全国津々浦々電気を消してみたら如何でしょう。あまねくお月様は富める街も貧しき町も、分け隔てなく明るく照らしてくれることを実感できるでしょう。そろそろ十一時、お月様は天頂へ昇り小さくなりましたが、貧しき我が家の上をゆっくりと通り過ぎられたという感じです。

                                             

                                            

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遅ればせながらの・・記事

2013-09-19 18:08:00 | 新聞

 熊本日日新聞に 長崎大に解体の熊本城櫓門の写真 という記事を「撮れたてニュース」として出している。
よくよく読んでみると、「マンスフェルトが見た長崎・熊本」に掲載されている、新三丁目の櫓門の紹介記事である。
この本は 2012年10月3日初版の本であり、今頃鬼の首を取ったような記事に驚いてしまった。遅きに失していますよ・・・・

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長崎大に解体の熊本城櫓門の写真2013年09月19日 

写真
オランダ人医師・マンスフェルトが撮影したとされる「新三丁目御門」の写真(長崎大付属図書館提供)
 熊本市中央区新町の明八橋付近に明治初期まであった「新三丁目御門」の写真が、長崎大付属図書館出版の写真集「マンスフェルトが見た長崎・熊本」(長崎文献社)に掲載されていることが分かった。関係者によると、門の全容を近くから確認できる写真は初めてといい、当時の熊本城下を知る貴重な史料になりそうだ。

 同門は薩摩・日向街道上に設けられ、熊本城内に入る時の最初の櫓[やぐら]門。江戸時代には門前に番所も置かれ、城下を通る人たちを監視していた。1872(明治5)年、当時の鎮西鎮台司令長官、桐野利秋の命で解体されたという。

 オランダ人医師マンスフェルトは71年6月から3年間、現第一高(古城町)の敷地にあった古城[ふるしろ]医学校・病院で臨床医学などを教え、北里柴三郎らを育てた。

 門の写真は71~72年に熊本滞在中にマンスフェルト本人が撮影したとされる。「熊本城城壁の表門」というタイトルで、縦169ミリ、横213ミリのモノクロ。
 


写真
 熊本のほか、長崎、京都などの写真を収めた「JAPAN」と題したアルバムの中の1枚で、スイス在住の孫が保存。このうち長崎大が入手した97枚のデータを昨年10月に写真集にまとめた。

 熊本市の富田紘一・文化財専門相談員は「城内では天守閣や大手門しか使われていない朝鮮式の垂瓦[たれがわら]が見え、新三丁目御門の重要性がうかがえる」と解説。門のそばには野菜売りのかごや、遊ぶ子どもたちの姿も写っており、「当時の生活を知る史料になる」と話している。(星原克也)
 
コメント (1)
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本名は頓とわからず草の花

2013-09-19 13:16:43 | 徒然

「雑草と云う草はない」という昭和天皇の御言葉は、けだし名言である。しかしながら 本名は頓とわからず草の花 という夏目漱石の句に、ごもっともと共感もする。 「四季の山野草」というサイトを見ると、画像数25,002 検索数(花・葉・実)8,883 という膨大な数の山野草が紹介されている。(ちゃちゃさんの「徒然草」から導かれた) 

漱石の孫娘の婿・作家半藤一利氏の「漱石俳句を楽しむ」によると、江戸っ子である漱石が熊本時代に「大いに植物の美しさに目を開かれた」としている

                              菫程な小さき人に生れたし

                           土筆物言はずずんずんとのびたり

                           行く春を沈香亭の牡丹かな

                           水仙の花鼻かぜの枕元

                           光琳の屏風に咲くや福寿草

                           行けど萩行けど薄の原広し

                           蛤とならざるをいたみ菊の露

                           菜の花の隣もありて竹の垣

明治29年から33年にかけての熊本時代の句を選んでみた。 

 8,883

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参勤ということ 3

2013-09-19 08:17:30 | 徒然

                                       熊本日日新聞社発行・タウン誌「すぱいす」から

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