寛永六年二月吉日書状(細川家史料-729-)は、光尚の結婚についての忠利の書状に対し、これを良しとするする三齋の返書である。
お相手はこれも三齋の孫(烏丸光廣女)である「禰々」である。
追而書之状見申候、其元之様子披見候二、ゑんじやごのみを仕候ハあしそうニ御入候由、
さやうニ可在之候、たがいニ力ニ成ことくのゑんしやハしうの為ニハわるき事候、又、公儀
むき其外おもハしからぬ衆と申合候ハ、事之外なる儀候、むかしよりゑんしやニ付よき事ハ
まれ成物候、心安候て物之不入が上々にて候、からす丸殿二番めのむすめと六と御申合
有度由、一段尤之儀と存候間、万所へをんみつにて可申遣候、定而可為満足候、我々より
申まてハ堅をんみつめされへく候、右之むすめ禰々と申候、そう一りハつニ御入候間、かた
/\可然候、大い殿と御たんかう有へく候、恐々謹言
三齋(花押)
二月吉日
未めかすみ、此中ハ猶々ほ(は)れ申候付、書中わけみへ申ましく候、此儀めてたきと
申事候 已上
越中殿
進之候
ゑんじやごのみ(縁者好み)という言葉は三齋によるものだが、これは将軍家周辺や有力大名との縁辺(子女の結婚)を模索する、黒田家・毛利家のことを差している者と言われる。特に細川家の豊前入りに際し、年貢を先取りして筑前に移封した黒田家と細川家の関係は悪化し、三齋は嫌悪感を以てこれらのことを取り上げている。
・黒筑むすめ、若君様(竹千代・家光)へ御上候由、十か九ツもこれにて可在之候、ミとの少将殿(徳川頼房)の事ハいかゝ
候ハんや、若君への事十の内にて一はづれ可申事も可在之と存候、是又きゝ被届次第可承候事 元和六年三月廿六日・207
・黒筑縁邊之事、若君様ハ中/\さたも無之候、ミとの少将殿へ才覚候由候、これハとくりとしれ申ましく候、いな事候、念
を入立きかれ、又可被申越候事 元和六年六月八日・212
・戸左門(戸田氏銕)と黒筑縁者ニ被罷成才覚之由、若調候ヘハ左門大炊殿(土井利勝)と知音ニ付、取つゝき候様ニとの
才覚、又主計殿(井上正就)息女よめニ可被取之由、左候ヘハ何方へも筑前取つゝ■■かるゝ之由、色々様々才覚奇特不
始于今候事 元和六年七月三日・215
・黒筑ミとの少将(徳川頼房)と縁邊之才覚之由、其外御前衆と入魂申才覚之由、始于今不申候事 元和六年八月十日・216
長政は息・右衛門佐忠之に大久保忠隣女を迎えたが、忠隣が失脚するとこれを離縁している。元和八年正月には、徳川秀忠養女(松平忠良・女)を迎えている。黒田長政は元和九年八月四日死去するが、生前の長政は将軍家や幕閣・有力大名への接近は驚くべきものがあった。また城を破却するなど阿諛追従も驚きを以て迎えられた。
忠之自身は夫人を亡くしたのであろうか、寛永六年にいたると、藤堂高虎女を迎えるべく動いていることを忠興は眺めている。
三齋が黒田家をゑんじゃごのみと評した直後のことである。但しこれは不調に終わっている。
・藤泉州(藤堂高虎)娘、黒田左衛門佐(忠之)ほしかりの由、きとく成る才覚にて候、同心参承候由、大略調可申候事
寛永六年六月廿一日・753
・藤泉すきと本復被申候由、又、黒田と縁邊調かね申候由、不思議成事候事 寛永六年七月五日・756
・藤泉州・黒田(忠之)縁邊之事、不調之由、不思議成儀候事 寛永六年八月晦日・767
黒田騒動や、天草島原の乱における采配など、黒田忠之に対する評価は優れたものとは言い難い。