慶長十九年、忠興が大徳寺の僧・希首座(キシュソ)を成敗した事件については過去にもいろいろ書いてきたが、事件の真相にはなかなかたどり着けない。
過去の記事をご紹介し、改めて綿考輯録の記事を此処にご紹介してまとめとしたい。
■松寿庵先生 第96講
■レファレンス「希首座」
■細川内膳家と希首座の祠
■希首座の祠
■細川内膳家・家譜 その一
二月中旬、大徳寺の希首座を子細有て御手討被成候、此事ニ付大徳寺の僧衆、板倉伊賀守殿迄訴状を上候
ヘハ、伊賀守殿仰ニならぬ迄も、越中殿の身体を是非亡し可申と何も被存候哉、夫ならバ一山江戸へも
御訴訟有へし、大徳寺ニかへても越中殿の身体をお潰し可被成と、よもや公義ニ被思召ましきと存候と被仰
しニより、自ら泣ねいりに成し也、此事ニ付希首座弟速水孫兵衛を御成敗被仰付候、仕手ハ松山権兵衛・
松岡久左衛門ニて候、江戸御普請の石場伊豆国宇佐美ニての事也、諸国の者入込ニて候間、騒敷無之様
ひそかに仕廻可申旨ニて、益田蔵人宿ニ夜中ニ孫兵衛を呼寄候処、間ニ油火有之を権兵衛飛越手籠ニい
たし、久左衛門突申候
考ニ一書、此事慶長十九年二月之所ニ出松岡か家記も同之、乍然其比ハ忠興君御在江戸也、右希座主(ママ)御手討
江戸ニての事ニてハなく、御国ニての事と見へ申候、いつれニ江城御普請之年ニて候間今年な
るへきか、既ニ速見(ママ)孫兵衛を仕者ニ被仰付候ハ、伊豆国宇佐美石場ニてと有之、諸侯方伊豆より
石を被運候事編年修成ニも見へ申候忠利君譜ニ出、外ニ弥十九年と申証跡考出候ハゝ、追而改可申候
又一書、希首座御手討ハ泰厳寺ニ逗留の節也、豊前か肥後か不分明、泰厳寺其時ハ大徳寺か妙
心寺かの派也しかとも、此節より曹洞宗ニ成申由と云々
又一書ニ、いつの比にや妙心寺の吉首座并熊本霊雲院の住持ニ成し僧金西堂下り御咄の序に、
三齋君御刀信長を抜て吉首座を切て落し給ふ、金西堂は御手水鉢下に逃かゝみしに、和僧ニハ
申分なしと仰らるゝ故に帰り畏る、後ニ金西堂人に向ひて、庭前の柏樹子も忘れて本来ノ面目
もなき仕合なりと語りし、彼首座ハ筑前の方に密状を遣したる科共いひ、御児扈従衆をかう
だいつめのたはむれの科共いふ、妙心寺の一山これを憤り、京の所司代板倉周防守殿江訴訟せ
られ、江戸江言上ありて給はるへしと有しか共、板倉殿返答ニ、一山ハ御潰し有共、細川家ハわ
け有事なれハ御とがめ有まし、御取次ハならす直訴可被成と有しかは、是非なく其儘にて止に
きと云々、此事別事なりや、又同事の相違か不分明