津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■日本画 安田靫彦 戦国武将 細川幽斎像

2015-07-07 15:46:00 | オークション

                          

                      日本画 安田靫彦 戦国武将 細川幽斎像

                                                 日本画 安田靫彦 戦国武将 細川幽斎像

                          安田靫彦氏にこのような画があることを知らなかった。

 

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■お田鶴様

2015-07-07 07:12:39 | 歴史

 お田鶴様とは齊護公の側室で深水氏女(加藤氏養女)護久公の生母である。
過日加藤家の先祖附を釈文の作成と共に読了、現在加藤家から提供された家系図を読んでいるがお田鶴様については不思議なほど触れられていない。

側室であるがゆえに細川家墓所ではなく、加藤家の菩提寺である小沢町の西福寺にそのお墓がある。
興願院耀誉心大姉と号し、没年は天保十二辛丑年五月十九日、26歳であった。
細川家14代当主・護久(天保十年三月朔日生)のほか、女子・眞(まさ)を生んでいる(天保十二年五月五日)が翌日に亡くなった。お田鶴様の没年からするとこの女子の産後であることが判る。難産であったのだろうか。

加藤家の系図を見ると文政七年、当時の当主が御作事方を勤めて居り二の丸や御花畑で仕事をしている。
十月九日の項に「お田鶴の方ニ御張出被仰付」とある。詳細は判らないがお田鶴の方の部屋の小さな増築だと思われる。
この時期はその没年から考えると17歳である。そしてすでに「お田鶴の方」と呼ばれていることが判るが、これは加藤家の文書であるため正式であるかどうかは判明しがたい。

護久公と生母お田鶴の方との生活は二年数か月である。
護久公が長じて肥前鍋島家の宏子と結婚するのは明治元年の十一月だが、このとき護久はすでに子をなしている。結婚前のことであり鍋島藩の大隈重信が大いに怒り輿入れが延期されたという逸話がある。その嫡子護成は八月三日の生まれ、生母はお田鶴の方と同様深水氏(縫)である。
縫はその後、女子三人を生んでいる。(男爵・細川興生室・嘉壽、伯爵・松平直亮室・宜、男爵・阿蘇惟孝室・志津 後離婚) 

                      
                                   左から宜・嘉壽・志津姫様方

護久---護立---護貞---護煕---護光とつづく細川家は、間違いなくお田鶴様のDNAが受け継がれている。

 

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