津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松寿庵先生 第149講

2015-07-03 08:34:48 | 史料

                         図録が欲しいなー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                         せめて福岡市博物館の「大関ヶ原展」を展観したいものです。              

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■綿考輯録から「飯河豊前・長岡肥後誅伐事件」(ニ)

2015-07-03 07:21:38 | 先祖附

扨豊前方にも取籠て討手を待所に、豊前か聟麻生吉右衛門日比ハ不和なりしか、此事を聞てはせ来り、
門の戸を敲け共一人も不入と答ふ、其時吉右衛門申候ハ、常々不和なる某なれとも、御免しあらハ一所
ニ相果へし、左もなくハ討手を待、門外ニて切死すへし、と呼はるを豊前聞て、奇特に来られ候とて内
ニ入ル、豊前か次男飯河岩徳今年十四歳なるか、前髪と振袖を切捨たすきをかけて吉右衛門と並居る処
ニ、河喜多石見人数を引具し来り候間、吉右衛門・岩徳以下家人共切て出、強く働て不残討死いたし候、
石見鑓をひねつて進寄る、豊前ハ得物の長刀を提け玄関より出るに、門番周章うろたゆる所を夫婦共ニ
突殺し、石見々々と呼掛なから前後の物陰を気遣、血長刀を差のべ打はらひ/\して石見に打てかゝる、
石見か家人河喜多弥助柳土手の陰にかくれ居て、豊前か通り過る所を刀を抜飛掛る、豊前ふり返り長刀
にて払ふを鐔にて請留、踏込んて一刀ニ仕留候を、石見則首を刎る
   石見か家来河喜多弥助本名は中西也、天正十八年小田原攻、宮城野口に仕寄を付る時、秀吉公骨を
   折候と御直ニ詞をかけられ、朝鮮にても手柄ある故河喜多を免し候と也、弥助平生強性者ニて、傍
   輩と喧嘩口論いたし、下部共を打擲等度々故、事やかましく存、在郷ニ遣、扶持し置けるよし、
   今日ハ早朝より城下ニ来候が、不図脇道より参逢候付、石見密に申候ハ、今日しか/\の事也、能
   こそ来たれとて直ニ召連候、豊前宅に着とひとしく、弥助ハ木槿の二行に有ける陰をつたひ、玄関
   脇柳土手の陰 一説ニ大石 に隠れ居て、本文之通働候となり
   其折豊前か侍童石見か側に来り、命を助けさせ給へと云を見れは、兼而存たる者故不便ニ思ひ、脇に不
   行我家来の内にまじり居候へといふ、童忝とて石見か傍に立居申候、石見ハ豊前が死骸を見て、日比入
   魂いたし候に、主命なれは是非に不及、痛敷事也とて落涙する所を、此童刀を抜石見か頭へを耳の根迄
   割付ヶ北ヶ行を石見左の手ニてハ額を押へ刀を抜候へ共、深手なれハ追事不叶、其時石見か家来追か              北ヶ=逃げ 敗北
   け、十四五間程にて彼童を弥助討留候一ニ鑓持突殺す、石見ハ宿所に帰りて死し候、豊前か方ニ上下廿二人討
   れけるとなり
      一書ニ曰、豊前か方に高麗人を幼少より育置を呼出し、其方幼年より育置不便ニ思ふ間、早々
      立退助り候へと云けるを、彼者、情なき仰にて候、御敵ハ某討取御先に立申さん、とて小キ杖
      を突盲目のまねをして門外之橋迄出、声高ニ石見様ハいづくにおハしまし候ぞ、罪なき盲目を
      御助け候へ、となきさけび橋のうへをうろたへ候を、石見見てあれ助けよと云により、家人等
      此方へとて手を取候を、盲目を殺し給ふ、石見様御助け被下候へ、とさけぶを石見ハ是に有と
      云て聞てさぐり/\取付候、後ロに居候へとて突はなさるゝ時、目を開き懐剣を抜て石見を二
      刀指す、石見か家来驚て彼者を切殺す、石見も即時に死しけると云々

豊前、男子二人・女子三人有、嫡男肥後、二女名ハ今前田主水妻、三女麻生吉右衛門妻、四女松井采女妻、五男飯河岩徳なり
   一書、五女若川毛山妻と云々
   考ニ、飯河豊前父子仕物被仰付候子細いかなる故と云事一向ニ不相分候、中山宗俊か覚書ニ、
   興秋主豊前御立退之事ハ慶長十年と御年譜ニハ有之、飯河御誅し被成候ハ同十一年ニて、其
   外共ニいふかしく候、併建仁寺ニての事御本譜よりも委候間、彼是追考之為右覚書左ニ出置申
   候
      慶長十一年興秋様ハ江府ニ御参勤被成候様ニと被仰候処ニ、興秋様曽て無御承引故忠興様
      御立腹被成、御父子様御間柄悪敷被為成候、されとも右之通之首尾ニて不被差立候てハ不
      成事ニ付、御用意等相調候上、長岡肥後江右之通ニ御偏ニ御頼被思召候間御異見申、江府
      江御供仕届可申旨被仰付候、肥後承り、只今私一命ハ指上可申候へ共、此儀ニおゐてハ御
      免、と再三御断申上候処ニ、命より三世の忠恩ニ思召候由御意ニ依て肥後難辞、此上ハ不
      及力奉得其意候、され共三度迄ハ御諫言可申上候、其上ニて無御承引候ハゝ興秋様可任御
      心、と申捨則興秋様江申上候ヘハ、何の支もなく御発駕被遊、京都建仁寺塔中十如院へ御
      上着、御滞留日を経て御発駕御延引ニ付、度々御催促申上候得共無御発駕、依之強而御諫
      言申上、明日は是非御発駕可被遊之由相極、翌日御用意相調候上、肥後罷出候ヘハ、早御剃
      髪被遊十徳ニ而御対面被成、肥後最早申分も有間敷候、帰国仕可申上旨御供衆も不残被召
      出、何も是迄御届申御満足被思召候、皆々帰国仕相勤候得と被仰聞、其儘奥へ御入被遊候
      ニ付、肥後も不及力豊前へ罷下、此段具ニ申上候処ニ、忠興様以之外御機嫌悪敷被仰付候
      時分、請方悪敷被思召候、其場を御通し被成間敷哉と被思召候得共、其通ニ而差置候、
      父豊前飯河豊前宗祐も同罪と被成御意、親子閉門ニ仰付候、其外一類縁者ニ至てハ無別儀、即刻
      逸見次左衛門を駿府・江府へ御使者ニ被遣候、意趣ハ外向へ不知候由、同年七月廿七日ニ逸
      見下着仕候、即日ニ肥後方江は益田蔵人、豊前方へハ検使逸見次左衛門、仕手ニハ河喜多
      石見二代目之石見・幼名藤平被仰付と云々下略、又一書、飯河宗祐一たび秀頼公の御味方に心をよせ、
      与五郎興秋公と同意之聞江あり、依之家康公御底意穏ならす故を以誅伐 せらると云々、是
      もいふかし

                               (了)                綿考輯録巻十八(第二巻 忠興公・上p436~442) 

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