津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■綿考輯録から「飯河豊前・長岡肥後誅伐事件」(一)

2015-07-02 16:58:08 | 史料

 先日の「希首座事件」とともに、事件の真相が判らないのが慶長十一年七月廿七日に起こった「飯河豊前・長岡肥後誅伐事件」である。
この事件については、戸田敏夫氏の著「戦国細川一族・細川忠利と長岡与五郎興秋」で委しく取り上げられているが、事件の原因については闇の中である。
遡る慶長六年七月七日、岐阜・関ヶ原・木付の役で働きのあったものが饗応の栄に浴した。そんな中で名を改めるように申し渡された中に豊前・肥後の親子も在った。
「篠山五右衛門を飯河豊前、何時も御留守可被仰付とて豊前(と)なさる一ニ小倉の御留守と有、篠山与四郎を長岡肥後、御諱の字を給り忠直と号」と綿考輯録は記す(第二巻・忠興公・上 p410)

この事件後の慶長十二年細川家を出奔した米田興季の妹が飯河肥後室であり、興季の出奔は此の事件が原因しているとも伝えられている。
忠興代の記録は細川家肥後入国の際、八代に運ばれたと思われ、後宇土細川家に伝えられた。史料は色々な原因で散逸しこの事件に関して今後新しい史料が出てくる可能性は少ないと思われる。
綿考輯録編者・小野武次郎によって収集された史料が次に示すものである。(綿考輯録第二巻・忠興公・上 p436)
2回にわたりご紹介する。 

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七月廿七日 一ニ十七日と有ハ誤也 飯河豊前 時ニ三千石、一ニ五千石、丹後ニてハ千三石と有・其子長岡肥後 時ニ六千石 を御誅伐被成候、自是先
飯河父子罪科有之由ニ而閉門被仰付、即晩逸見次左衛門を両御所様に御使者被遣候 子細不分明 
七月廿七日逸見下着仕、即日両人を御誅伐 之為検使、肥後か方へハ益田蔵人、豊前か方へハ逸見次左衛門、
仕手には河喜多石見一成被仰付候、蔵人ハ肥後か恩を受、口入ニ依て御当家ニ被召出候、肥後ハ長ヶ六
尺有余無双の強力也、右之事共を聞とひとしく、明衣一ヲ着し白鉢巻をして玄関ニ立、門押開かせて侍
居たる所ニ、蔵人しつかに来り候、肥後大音にて、蔵人某か仕手なるや、一勝負すべしと呼はる、其時蔵
人刀・脇差を一ツにつかみ後ロへ投除、是ハ勿体なき御様体ニ而候、某伺公仕るハ雑人原に御手をおろ
され御名をけかされ候ハんハ、却而御恥辱と存る故ニ候、急き奥に御入有つて尋常に御切腹可然、某御
介錯可仕と云けれは、肥後忽納得して、然らハ其旨ニ可任と云つゝ、左の手にて蔵人か首筋をつかんで
中に引さけ内に入ル、肥後か女房ハ米田助右衛門嫡女也 肥後に嫁して一女を生、名をあいと云、五歳也 不和にして三年対面をも
せさりしと也、忠興君ハ助右衛門か後家雲仙庵を御城ニ被召、豊前父子今度被誅候得共、汝か娘親子ニ
ハ罪なし、呼取て育み候へと被仰、雲仙庵御請に、難有御意ニ候へ共、ミつから心に思合せ候に、此
節ニ至常々不和なる夫を捨て命助り可申とハ存候まし、なましい申越候而却而恨ニ存候ハゝ、死期の障
ニも成り可申候、何とそ上の御計ひを以命助かり候様ニ奉願候と申上候、忠興君尤ニ思召、米田与右衛
門貞政(是政弟)を被召、肥後か女房・幼年之娘共ニ罪なし、此旨を申越呼寄雲仙庵に育せ候へと被仰付、与右衛
門方より委申遣候、肥後か妻返事に、難有御意之趣とかくを難申候、乍去覚悟之前ニ候へハ罪なきとの
仰を蒙り潔く生害可仕候、娘あいハ東西瓣へさるもの雲仙庵ニ渡し給り候とて娘をハ遣し候 後十歳計にて早世
然所ニ肥後か方へ人を以て、年来の無音不及是非、急ぎ娘をつれて雲仙庵に行養育し候へと申遣候
へとも同心せす、左様の御心入故にこそ斯まても成果給なり、只今此方ニも御城より使参候とて与右衛
門か状を見せ、此御請にハ肥後同意ニ覚悟仕候ヘハ、罪なしとの御意を蒙り果候事無此上悦ニ候、娘ハ幾
重ニも可奉頼候とて使ニ渡し遣候、早々奥ニ御通り候て、自らか死骸をかたつけ、心静にに御生害候へと
申遣し候、肥後やかて奥に入、今迄の誤り悔てもかへらず、貞節感するに余りありとてよろこひ候、妻
ハはや白装束にて髪をさばき、広蓋に白き明衣・白き帯・白繦を乗せ肥後か前ニ出し候へは、肥後も共
ニ支度して妻を指殺し、其身も切腹いたし候、蔵人介錯して早速此旨申上候得は、忠興君被聞召、肥後
か妻の貞心を御感被成候、肥後夫婦か死骸ハ米田家より葬送仕候肥後か妻、法名瑞光院海印妙照 

    勇士一言集の内ニ、細川三齋殿の一族ニ長岡肥後と云者有、豊前厳石城を預られけるが、あし
    き事のミありし故謀て討んと思はれけるを、肥後密に聞て遁所なくおもひけん、妻子を殺害し、
    討手来らはと待居たりける、三齋殿是を聞給ひ、足軽大将益田蔵人と云者を呼給ひ、長岡肥後
    か悪事趣過たるにより誅せんとおもふ内に取籠りたると聞く、汝かれか宿所ニ行て肥後ニ腹をき
    らすへし、乍去肥後ハ城も預たる者なれハ、此箇条半分も云ひらくにおゐてハ、今度の罪科を
    ハ赦免すへしと云渡されける、此蔵人ハ肥後か為にハ寄子也、去により人多しといへ共心有て
    蔵人を云付られたり、蔵人は辞退なく足軽を引具し肥後か宿所へ急ける、宿所ニ着けれは門ニ立
    より、こゝを明給へ、御意有之益田蔵人来たりと云ければ、蔵人殿ならは入せ給へとて門をひ
    らきたり、足軽郎等皆門外ニ残、唯蔵人計そ入たりける、元より肥後覚悟したる事なれハ、蔵
    人を見るよりはやく、御意を聞迄もなし、我におゐてハ働死なん所存なりと高声に言侍る、蔵人聞
    て、されハ其事にて候、御意の趣数ヶ条候、先ニ是を聞給ひて其後ハ兎も角も心ニまかせ給ふ
    へしと云たりける、肥後是を聞て、実ニ是ハ尤とて蔵人を座上へそ請じける、蔵人上座に直り
    懐中したる巻物を取出し、此箇条の内半分も云ひらき給はゝ、御赦免有へきとの御意なりけれ
    ハ、何とそ思案めくらし給へと念比ニ告侍ぬ、肥後打笑て、尤の御意なれとも、妻子をも生害
    し侍れハ、此上は兎角もなし、御辺もはやく帰て此由申上給へと事もなけに云たりける、益
    田聞て、扨も口惜次第なり、さもあらハ我もいかてかこゝをさるへき、某牢人にて居たりし時、
    ひとへに肥後殿の厚恩をうけてこそ当家の禄をは戴たり、然れとも御意ハ又背かたし、身不肖
    ニハ候得とも御合手になるへし、と言葉静に云たりける、肥後打うなつき、それこそ望所なり、
    誠に貴殿ハ常々長刀の自慢し給ふ、我も鑓の抗言を云侍、ぬ、幸の事なり、今勝劣をたくらふへ
    し、定而持参ハ長刀なるへし、いざ参らんとそ云侍ける、蔵人聞て、いかにも持参は長刀なり
    とて門外ニ取にこし庭上に罷出、獅子奮迅虎乱入の秘術を尽し、互ニ勝負ハ見へさりける、か
    くて蔵人長刀をからりと捨、庭上にかしこまり首をのへてそ待にける、肥後是を見て、草臥て
    休足し給ふか、さらは我も息をつきゆる/\と勝負を決せん、と腰をかけてやすみける、蔵人
    云様ハ、少もつかるゝ事侍らす、只今迄ハ主君への忠勤也、是よりハ肥後殿厚恩を報するなり、
    はや/\首を刎給ふへしと詞しつかに云たりけれる、肥後鑓を杖につき黙然として立たりしか、
    中ニて心を引替て、今迄ハあやまりたる我悪心を持ておほくの人を損して後代迄の益なしと、
    互ニ手を取座敷にあがり、しばらく物語なとして腹かき切て臥たりける、蔵人涙をなかし泣々
    頭を打おとし、三齋殿の見参ニ入給しとなり
    一書ニ云、為人抄ニ肥後と蔵人と切合たる様ニ記したるハ非なり、又岩徳か事を岩助と云、
    肥後か子の様ニ記したるも非也と云々
     

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■山口白陽 もつこす語典ー肥後狂句で解説した熊本弁のすべて

2015-07-02 09:26:03 | オークション

                       山口白陽 もつこす語典ー肥後狂句で解説した熊本弁のすべて

                       山口白陽 もつこす語典ー肥後狂句で解説した熊本弁のすべて

 引っ越しの時処分した中の一冊、今にして思えば残念の極み・・・・、1974年の発刊だから40年を経過している。
定価5,000円は当時としては大変高価なもので、よく購入したと思うし何で処分したんだと自分を責めたくなる。
熊本弁の勉強には最適の資料だ。肥後狂句に親しみながら如何ですか。 私? 私はほかに買いたい本がいろいろあって・・・・・・ 

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