以前御奉行所の発足を書いた。ここでご紹介した絵図の場所は、現在の奉行丸のあるところである。(下図中央 田中兵庫 加藤平左衛門中屋敷)
この場所には加藤家治世の時代には加藤平左衛門の中屋敷があった。平左衛門の屋敷は城内にもあったが、細川氏肥後入国に際して解体されどうやら八代へ持っていかれたらしい。
忠利の肥後入国後城下の屋敷割が為されたのは、寛永十年正月中旬だとされる。その原図には「上々」「中」などの書き込みが為されており、これらをもとに上級家臣の屋敷割が行われたのだろう。さて平左衛門の中屋敷跡には「田中兵庫」の名前が書き込まれている。
松井氏以下三卿家老はいわゆる二の丸に屋敷が振り分けられるが、奉行丸は「西大手門」「南大手門」の内に位置する。
この田中兵庫とは豊前時代からの「惣奉行」田中兵庫助(氏次)であり、寛永十三年の奉書(七月二十六日)に「兵庫屋敷、御奉行所に仰せ付けられべく候間、なわばりの事」とある。( 新熊本市史・通史編第三巻・近世Ⅰ p407)
三卿をさておき城内に田中氏の屋敷が置かれたことは、「御奉行所」=「惣奉行の役宅」として選ばれたと考えるのが妥当であろう。
田中家は兵庫の子・左兵衛(氏久)の代に至り光尚付として出頭し、又天草島原の乱における「幻の一番鑓」としての高名も手伝い都合四千五百石の大身となり、肥後藩初の城代職(慶安元年十二月~延宝四年一月)に就いている。
後年に至ると田中家の屋敷は二の丸の現在熊本県立美術館があるあたりに移っている。
宝暦に至り奉行丸の屋敷は完全なる藩庁として機能する奉行所(政府)庁舎として整備された。
田中兵庫の時代から奉行所の庁舎に至る間の、この建物に誰が住みどう利用されていたのか興味が尽きないところである。