昨日ご紹介した安田靫彦が描いた幽齋の画には驚かされた。穏やかな表情が印象的だ。
藤孝が剃髪したのは、明智光秀謀叛の知らせがもたらされた直後の事である。幽齋玄旨と称して隠居、宮津城を忠興に譲って自らは田邊城に移った。
光秀の謀叛は天正十年六月二日未明のことである。三日愛宕山下坊の幸朝の使いとして早田道鬼斎成る人物がこの報をもたらした。忠興への家督や剃髪の事は、六月三日だといわれる。光秀から味方を要請する書の冒頭に「御父子もとゆひ御拂之由尤無余義候」とする有名な書は、六月九日付けである。こちらの使いは沼田権之助光友(幽齋室麝香の実弟、後細川家家臣)であった。
当時在京していた米田求政も丹後に駆けつけ、藤孝の剃髪を見て自らも剃髪宗賢と改めた。又有吉立言も同様剃髪して宗祐と改めた。